2020年、東京の夏(創作)

オリンピックで熱気あふれる東京に、正体不明の何かが現れた。戦う手段も、不思議な力もない私たちはただ逃げ、祈るしかないーー。 翻弄される人々の目線から語られるパニック・オムニバスストーリー。
0
詩織子 @cyan0401

「ねえ、本当にオリンピック見に行かないの?」「行かないよ。だって暑いし、私仕事あるし」「ふうん」それが、二カ月前の話。「陸上観にいくんだ」「陸上部だったもんね」それが、二週間前の話。「いっぱい人いるよ。ホテル取れてよかった」「無理しないでね」それが、二日前の話。

2018-07-22 22:26:20
詩織子 @cyan0401

「あっつーい。そろそろ始まるよ」「水分取るんだよ」それが、二時間前の話。今の私は、通じない電話を何度も掛け直している。嘘だ、嘘だ、こんなのありえない。あの子は今どこにいる?どうかあれがドッキリだって、偽物だって、笑いながら教えてよ。

2018-07-22 22:28:15
詩織子 @cyan0401

2020年、東京。おびただしい人間を犠牲にしてーー「ソレ」は目を覚ました。21年もの寝坊だ。まったく、笑わせてくれる。恐怖の大魔王が、灼熱の大地に君臨した。 chapter0 地獄の産声

2018-07-22 22:30:27
詩織子 @cyan0401

その光景は、わたしの勤めるオフィスからもよく見えました。ーー職員の休暇の多い日だったのでごく小さな困惑のさざ波だけで済みました。もし大勢いたならパニック状態だったでしょう。わたしが呆然と外を見ていると上司は「最悪だ」とだけ呟きました。

2018-07-23 22:33:28
詩織子 @cyan0401

上司の顔は真っ青でした。今までどんなお叱りを上から受けても飄々としている人だったので、その様子を見てわたしはようやく「異常なのだ」と思いました。上司は注目させるために片手を上げます。「あれは俺の幻覚か?」問いかけに否、とみんなは答えました。上司は苦笑いします。「集団幻覚か」

2018-07-23 22:37:06
詩織子 @cyan0401

集団幻覚ならなんと面白かったことでしょう。遠くのオリンピック会場の位置でコールタール状の黒々とした液体が噴き上げています。噴水のように勢いよく。なにか形を作ろうとしては崩れていきます。昔弟と遊んだスライムを見ているようでした。

2018-07-23 22:42:02
詩織子 @cyan0401

吹き上げるたびに、形を崩すたびに、周りの建物を液体が覆っていきます。わたしは耐えきれなくなりその場に尻餅をつきました。あれはーーあそこにいる人たちは、無事なのか。そもそも触れたらどうなるのか。ここからではなにも、分かりません。

2018-07-23 22:43:42
詩織子 @cyan0401

ブゥン、という空調機の音だけがオフィスを満たしています。「下手な怪獣映画みたいだ」先輩が無理やり笑いながら言います。「どうします、佐藤上司。B級映画ならおれたちも飲み込まれるパターンですよ」「家族があそこに行ってるんだ」上司は呻きました。「B級映画のように」

2018-07-23 22:47:08
詩織子 @cyan0401

先輩は黙りました。同僚が啜り泣きます。やはり、知り合いがオリンピック会場に行っているのです。いえこのオフィスの、休暇を取ったもので何人が会場にーー。そこまで考えて、ゾッとしました。理由は分かりません。ただ…おそらく、遠い出来事が一気に現実感を伴い始めたからでしょうか。

2018-07-23 22:50:14
詩織子 @cyan0401

「今から携帯の使用を許可する!安否確認だ!それに情報も!」「いや、そんなんより逃げましょうって。他人よりこっちの安全スよ」新入社員が真面目な顔をして指摘しました。上司が怒鳴る前に、私たちが目を離した窓を指差しました。「アレ、こっち来ますよ」

2018-07-23 22:52:53
詩織子 @cyan0401

見ればコールタール状の何かは外側に向かって形を作り、崩壊しながら広がっていきます。この距離から見ても目に見えて動きがあるということは、相当早いのでしょう。「交通機関はもう間もなく麻痺をする。しかもあれは走って逃げられるか分からないっス。ね、井崎先輩。B級映画での定番でしょ?」

2018-07-23 22:55:48
詩織子 @cyan0401

先輩はぽかんとしています。「なんだ、おまえ……趣味近いのかよ」あまりにも、場違いな言葉です。それでも、その言葉で皆正気に戻りました。「逃げるぞ!」上司が叫びました。出遅れたわたしがオロオロしていると、後輩がわたしの手を掴みました。「バイクの後ろ乗ったことあります?」

2018-07-23 22:58:16
詩織子 @cyan0401

「…ある!」「じゃあ乗せてやります。ノーヘルでも許されますよね!」パニック映画の定番だな。生き残れよ、若いお二人!」「先輩こそ!」わたしたちはバタバタと慌ただしくかけます。後輩は自分のヘルメットをわたしにかぶせました。ふと、かすかに甘ったるい匂いがすることに気づきました。

2018-07-23 23:01:55
詩織子 @cyan0401

そのことを後輩に言う前に、バイクは急発進します。後ろは振り向けませんでした。 chapter1 非日常への扉

2018-07-23 23:02:50
詩織子 @cyan0401

学校の外はお祭り騒ぎだというのに、学校の中は葬式モードだ。模試で基準点に行かなかった不合格者ども(俺とか)は教室という牢獄に閉じ込められている。「俺もお前らと全くおんなじだよ」見張り……もとい、自習監督の担任はウンザリとしながら言った。「補講さえなけりゃ俺だって涼しい部屋で

2018-07-25 21:13:18
詩織子 @cyan0401

キンキンに冷えたビールを飲んでオリンピックを見ていたのによ。八人も追試だと宿題出すだけじゃ済まないんだよ」「それは難しい問題を作った先生にも問題があるのでは?」「冷房切るぞ?」それは担任も自爆するのではないか。死なば諸共みたいな感覚だろうか。

2018-07-25 21:15:48
詩織子 @cyan0401

「あーあ、世間はオリンピックなのに。なんでこんなにつまらないことしなきゃならないの?」ギャルが言った。外見は俺らの中で一番派手だが、点数は俺らの中で一番良かった。ゆえに一日補講を免除されている。ずるい。「オリンピック見るのか?」「みないけどぉ」「じゃあいいじゃねえか」

2018-07-25 21:18:14
詩織子 @cyan0401

休憩時間でもないのにくだらない話に花を咲かせるあたり、担任もめんどくさくなって来たようだった。「誰かこの中で生でオリンピック見に行くやつは?」「俺でしたけど」ぶすくれている原因はそれだ。「補講入ったから両親と妹だけで行きましたー。しかも泊まり」「自業自得だろう」

2018-07-25 21:20:49
詩織子 @cyan0401

「先生はなにも思わないんですか!若者の学びのチャンスをとったんですよ!」「学びの場で言うかそれ? おら、続きやれ続き。田口、携帯没収すんぞ」後列に座っていた金髪の頭が眩しい田口は食い入るようにスマホを見ていた。「田口!」「先生! これ見て!」今まで聞いたことのない真剣な口調だった。

2018-07-25 21:23:55
詩織子 @cyan0401

スマホの画面はSNSだ。動画が流れている。みんなで集まって凝視する。画像は粗いものの、何度も何度もテレビで見たオリンピック会場が、オイルか何かをぶちまけられたように真っ黒になっている。「…フェイクニュース?」「違う、みんな同じ内容ばっかだ。なんか、オリンピックに何か起きたんだよ!」

2018-07-25 21:26:01
詩織子 @cyan0401

担任はにわかには信じられないという顔をする。「タチの悪いデマだろ。誰か本物と証明できる?信用できないシロモノじゃないか」「でもさぁ!」言い争う二人を横目に俺はこっそりとスマホを見てーー目を剥いた。妹からの着信が夥しい数、入っていたのだ。

2018-07-25 21:28:33
詩織子 @cyan0401

掛け直そうとした時、相手からちょうど掛かってきた。「もしもし、ミサキ!?」『お兄ちゃん!』キリキリとした叫び声だった。『パパともママともはぐ--ゃったの!』電波が悪い。『へんな--が流れてきて…二人がどこにいる--とか知らな--』「知らないけど!なにが起きた!?どうしたんだ、ミサキ!」

2018-07-25 21:31:46
詩織子 @cyan0401

八人の視線が俺に集まっているがどうでもいい。ただの迷子ではないのは分かった。なら、今なにが?『わか--い! ドロドロした--がきて、今高いところに逃げ--る』何か、嫌な音が電話の向こう側でした。表現しにくいが…昔家族で見に行ったダムの放流のような。『やだ、建--にドロド--がかかった!』

2018-07-25 21:35:26
詩織子 @cyan0401

「ミサキ!?」『溶け--!? 崩れてる!? 分---ない! --だよ!』悲鳴が、ノイズとともに妹の声をかき消す。バキバキと折れる音がした。『お兄ちゃん!』甲高い声が鼓膜に響く。『お兄ちゃん、お兄ちゃんっ! 助けて! 怖いよっ! お兄ちゃん、助け』轟音とともに通話は切れた。

2018-07-25 21:38:32
詩織子 @cyan0401

手からスマホが滑り落ちた。床に叩きつけられ、画面にヒビが入る。俺はその様子をただ見つめていた。周りもなにも言わなかった。予鈴のチャイムだけが、虚しく響いた。 chapter3 電波の境界線

2018-07-25 21:40:32
1 ・・ 4 次へ