#あちこちのすずさん の物語――『戦中・戦後の暮らしの記録』と「この世界の片隅に」
#あちこちのすずさん 祖父は腕のいい漁師だったそうだが喘息持ちで兵役に就けず、戦中は肩身の狭い思いもしたという。 それでも県から表彰されるほど漁に励み銃後を支え戦中を生き延びたが、戦後に苦労をしてエンジン船を手に入れた後、排ガスで喘息が悪化し自分が生まれっるずっと前になくなった。
2018-07-25 23:32:53#あちこちのすずさん とても素敵なタグ。国も性別も結末も違うけど、アフリカの知人が先日亡くなった。最初の奥さんが妊娠中に事故で無くなり、次の奥さんは病死、次の奥さんとの間に小さな子供が生まれた直後に結核になって亡くなった。この時代に結核で死ぬなんて…親切な彼のことは忘れない
2018-07-25 23:37:43#あちこちのすずさん うちの「すずさん」にも話を聞こうと思うとったら...20時を過ぎたら寝てしまうということだったんじゃ....(キャラメルは遣らんぞ...) pic.twitter.com/3oylawvtOD
2018-07-25 23:37:45#あちこちのすずさん そう言えば故郷沖縄の母方の祖母は、夫と長女を「戦世(いくさゆ)」で失いながら、残りの4人の子を育て上げたのだそう。末っ子の母は、「祖母の笑顔しか見たことがない、あんなに小さいのに、ずっと大変だった筈なのに」と言っていた。「笑顔の入れ物」だったんだね(^-^)
2018-07-25 23:38:19母の話です。戦後、食べ物と物々交換に来ていた人の中にわざわざ神戸から夜行列車と渡し船を乗り継いで岐阜の山奥まで来ていた人がいたそうです。「ちょっとあだで綺麗な人で、帯留めとか綺麗な友禅とか、なんの商売しとる人だったんだか」 #あちこちのすずさん
2018-07-25 23:39:01#あちこちのすずさん #この世界の片隅に 大正11年12月生まれの祖母。 妹に来た縁談だったのを順番が違うから…と祖母が受けることになり、結婚したが、残念ながらダメ夫だった。 戦争が激化し、東京の北千住から夫の実家の埼玉県深谷市に疎開。そこでは地元でも有名な意地悪小姑が待ち受けていた。→
2018-07-25 23:40:35下町の商人の娘だったから、高価ではないものの、田舎にはないような服を持っていたり、畑仕事や土いじり、裁縫まで苦手にしていたものだから、義姉から、さんざん苛められ嫌がらせもされたらしい。 しかし、あの人の性格では、やられっぱなしでもなかっただろうが、それでも我慢していたのだろう。→
2018-07-25 23:40:37昭和20年8月15日深夜(日本側の記録だと14日の23:30頃とも…)、熊谷空襲。 深谷からも熊谷が攻撃され、激しく燃えているのがわかったという…。 深谷もやられはしまいか…と、真夜中なのに明るい空を、とても恐ろしく思いながら見つめていたという…。→
2018-07-25 23:40:3712時間後に終戦…。もう少し早く終わってりゃね…。熊谷の人は本当に悔しかっただろうね…と言っていた。 戦後は、人世話で住むところを見つけると、意地の悪い姉のいるダメ夫の実家をさっさと出て、ヤミで食料やら生活に必要なものやらを手に入れたりしながら、19年に生まれた娘(伯母)を気丈に→
2018-07-25 23:40:38育て、21年の7月には第2子(母)を出産し(新子ちゃんと同い年)、周りのいい人達に助けられて、いろいろな商売をしながら、最終的に大衆食堂を開いた。 長く続けたが、体調を崩しがちになり、入院したのをきっかけに、82歳で店を閉めた。→
2018-07-25 23:40:38祖母が亡くなったのは2013年の8月15日。 終戦の日だった。 丈夫ではなかったけれど、気の強い人で、なんだかんだ元気だったから100まで生きると思われていた。 それでも「あの人、絶対、忘れたくても忘れられない日を選んで死んだよね…」と笑い話になった…。 90歳だった。
2018-07-25 23:40:39周防大島近くに住んでいた祖父と父達は、 タコ漁の漁場に急ぐために、 大和の前を横切った事を何度も自慢してた。 後にそれが大和最後の出撃の時の事であり、 #この世界の片隅に の中で、 すずさんが偵察機の飛行機雲を見る前の事でもあったようだ。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 23:41:48周防大島近辺の話。 いわゆる「グラマン」に機銃掃射をされることを恐れて、 弟や妹たちを背負って山の中に隠れに行ったそうな。 #あちこちのすずさん あと、戦後に日本刀を所持していたため、 GHQに見つかったら処刑されると思って、 一週間ほどかけて、どうにか刀を折り、農具に変えたそうな。
2018-07-25 23:45:21木炭バスが家の前を走っていた母の実家の話。 作品で描かれたように馬力が出ず、坂を上らないから、 その場に居合わせた人たちが後ろから押すのが当たり前だったそうで、 そのうち坂を上る事が出来ず、後ろに下がってきたバスに 近所の子が轢かれて死んだ様子を目にしたそうな。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 23:48:35#あちこちのすずさん 祖父の戦死で台湾から東京大森へ引き揚げた祖母。 戦争が激しくなり川越へ移転し、女手一つで母を高校に進学させた。 そんな環境で祖母を残して嫁げない母のもとへ養子縁組した 川越近郊の農家の次男坊の父。 そんな戦争から生き延びた彼らがいて、自分がいる。 感謝。
2018-07-25 23:43:18夫の親戚のおばさんの話。女学校の授業はなく、松根油を取る毎日、ある日空を見ると米軍の飛行機が編隊で飛んでいた。「爆弾を落とすかね」「いやあ、田や畑に大穴があくだけじゃけ、ここにいは落とさんよ」「ほうじゃね、米軍ももったいないことはせんよね」と言いあったそう #あちこちのすずさん
2018-07-25 23:45:43終戦が小学校6年の亡き父は、空襲から大切なビー玉を守るため漆の菓子器に どっさりのビー玉を2箱、家の周囲の土の中に埋めて 戦後に掘り起こして取り出したのです。父は空襲で足に大火傷で数日 気絶して、祖母は娘2人と泉水池で布団を被って蒸し焼き状態。ビー玉が父の心を癒したのだと思います。
2018-07-25 23:46:18…ビー玉のお陰で心が病まなくて良かったなぁ。 その後は、中学受験して、吹奏楽でトランペット吹いて…高校3年の時に祖父は病死したけれど、子も孫も何人も出来て 結果的には上手に人生を送った人だと思います。
2018-07-25 23:53:28まだ 小学生だった時の父親の話ですから、すずさんの話では有りませんが…💦 #あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-27 07:10:54祖母は被爆者手帳を持ってたけど、当時のことはなにも話さなかった。祖母の死後、初婚で市内に嫁いで離縁された過去があったことを知った。小さな子を連れて逃げたこと、その子たちを置いて家を出されたこと、そんな話を聞いてあげられたらよかったのにと思う #あちこちのすずさん #この世界の片隅で
2018-07-25 23:47:05満州で、二重窓の間を冷蔵庫がわりにしてたら、鍵かけてたにも関わらず食料をパクられたウチのばあちゃんの話する? #あちこちのすずさん
2018-07-25 23:47:17父方の祖父は、海軍で南方の島にいたらしい。終戦後飛行場を明け渡すことになり、撤退前にドラム缶に残っていた燃料をすべて水に入れ替えといたと、よく言ってた。バナナがとても美味しかった。日本に帰ってきてから食べるバナナは美味しくないと。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 23:48:47