#あちこちのすずさん の物語――『戦中・戦後の暮らしの記録』と「この世界の片隅に」
#あちこちのすずさん 戦争末期のこと。父の一番上の兄は、父の父【祖父】が片足が悪く、召集免除されたので、代理で召集された、と聴いている。
2018-07-25 20:54:04#あちこちのすずさん 叔母は戦中世代、夏休み屋根に登るいたずらをして正座で怒られたあと、この裏の壁で空襲の炎が遮られてこの家は残った。 街を歩くと黒焦げの遺体がそこいらにあったのよ。 だから大事に生きないとだめ、と言われた。
2018-07-25 20:49:46島根の実家(県境付近)に住むうちの93歳の祖母。8月6日に実家で畑仕事をしていてあのキノコ雲を見たそうです。そして被爆者がここまで歩いてこられた。祖母は耳は遠くなったけど元気です。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 20:52:15#あちこちのすずさん うちの母はすずさんよりだいぶ若いが自宅の敷地内に防空壕が掘られたのは覚えているという。母の長姉の旦那さんはパイロットで、特攻に飛び立った後、機体の不調で海に不時着して生還したと聞く。 (映画を観て母が語り出した話はリンク先に) shimirubon.jp/columns/1683069
2018-07-25 20:52:40去年亡くなった母(すゞ子=すずこ)は、終戦間際に土浦駅付近で米軍機から機銃掃射を受けたことがあるようです。戦中、戦後の動乱の中を生き延びてくれたので今の自分があります。父母に感謝👪 #あちこちのすずさん #この世界の片隅に pic.twitter.com/gD2pi8dqMZ
2018-07-25 20:52:48@hoppe714 1945年6月10日に霞ヶ浦航空隊(予科練)や阿見町も空襲を受けたという記録があるので、その頃でしょうか。 私も父(生きていれば今は91歳)からパラシュートでB-29から脱出した米兵を見に行った事があるという話を聞いたことがあります。 因みに、父の兄は外地で戦死しています。 #この世界の片隅に
2018-07-25 23:33:54@hoppe714 土浦ならそうだと思います。 予科練平和記念館には空襲後の街を空撮した写真があったと記憶しています。 だから土浦にもすずさんがいたハズです。 ただし当時14歳だった私の母は、戦中の話としては台風の日に姉と映画を観に行った話しかしません。(^^; #あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-26 05:33:26#あちこちのすずさん 祖母16歳の時、山手空襲にて自宅が全焼、あと30cm近ければ祖母は焼夷弾の直撃を受けてこの世にいなかった。 早大生だった祖母の兄、予備士官として特攻隊へ。 出撃直前に玉音放送を聞く。
2018-07-25 20:55:23#あちこちのすずさん 私はこれですね😜 pic.twitter.com/2tLHyj2rQg
2018-07-25 20:58:357年1月生まれの母。 20年8月には軍事工場で手伝いをしていたらしい。 叔母は◯◯ちゃんが部品を作っとっとた飛行機が空を飛んだとは思えんとか、じゃけえ戦争に負けたと散々なこと言われてたなぁ。 #あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-25 21:02:01母は11時兄弟で、女6人、男5人。 祖父は裏山に娘達の嫁入箪笥にと植林したそうな。(桐か桜だったような) 戦中、物資が不足したため、仕方なく伐採しては、下駄を作ったりしたそうな。 #あちこちのすずさん #この世界の片隅に
2018-07-25 21:09:55錦江湾に停泊中の軍艦見学に同級生無理矢理誘って二回も重巡古鷹に当たって残念がる祖母、空母が御所望だった島津の女学校首席一番おてんばさん。呉でも見学会有ったのだろうか? #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:04:22#あちこちのすずさん 祖母はどちらかというと晴美さんやヨーコちゃんの世代ですが、瓦礫で壊滅的になった原爆投下直後の長崎に曾祖母ちゃんに背負われて入ったそうです。 ただその先のことは、あまり覚えてないといって押し黙ってます…。
2018-07-25 21:04:24#あちこちのすずさん 祖母によると「ハイカラな物が大好きで髪にパーマネントあててダンスホールでタンゴを踊っていた」という平成元年に81歳で亡くなった祖父は、日米開戦を知って「あーもうダメだ!」と布団をかぶってふて寝したらしい。 国力の差の事か自分が遊べなくなる事かは今となっては不明
2018-07-25 21:05:40#あちこちのすずさん 父たちの「ごちそう」といえば、すいとん。 「すいとんはなー、小麦粉が入ったらあれだって作られたねえ」 母「でも味なんてほとんどないわよね」お醤油とかも貴重だって言われてさあ、と。
2018-07-25 21:07:22#あちこちのすずさん 母や父が体験した戦争は、母4歳くらい、父6歳くらい、のことなので 「怖かった」「おなかがすいてた」(父、母)「国民学校になかなか行けなかった」(父)「配給なんてちょっと」(父)
2018-07-25 21:13:28母は4歳くらいだったので妹を背中に背負った母(祖母)に手を引かれて 山の中を右往左往。#あちこちのすずさん 八王子大空襲で。
2018-07-25 21:16:09父と父と年の近い兄弟たちはあらかじめ決めてあった町はずれに逃げ、 年が上の兄弟たちは高尾山の方向に逃げて無事だったそうです。#あちこちのすずさん 八王子大空襲で
2018-07-25 21:18:04父は予科練でした。終戦時、刈谷さんの息子さんと同じ17才。もう少しで回天に乗る予定でした。生き残って私と息子がいます。#あちこちのすずさん
2018-07-25 21:08:20義父は観音で学徒動員中に原爆が落ちました。一学年下は疎開疎開の動員中に原爆投下、全滅しました。昨年平和資料館で聞いたお話が偶然その時の物でした。義父は刈谷さんの息子さんのように家族の住む呉まで歩きました。数年前に84才で亡くなりましたがずっと元気でした。#あちこちのすずさん
2018-07-25 21:15:00友人の祖父は8/6に基町の電電公社(基町クレド付近)地下で作業してた。原爆投下後の火災が収まった後に地上に出て、何も無くなった街に衝撃を受けたそうな。原爆爆心地直近にいたのに、80歳くらいまで生きておられました。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:08:34友人の祖父は電話技師だったそうで、軍のエラいさん宅の電話の修理に行って、エラいさんに気に入られたそうな。エラいさんに「困った事があれば言えーよ」と言われていたので、招集令状が来たときにエラいさんへ連絡したら、あっという間に招集が取り消されたそうな。 #あちこちのすずさん
2018-07-25 21:18:12