- cogito_erogetum
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結局、福嶋の時評は現在時で(批判がほぼ不在のまま)立ち上がりつつある批評の基準に対して、20世紀的な批評の基準でもって水を差す試みとして理解できるから、複数の基準同士の対立として捉えて、どちらかに賛成/反対という立場を取るべきではないーという微温的な結論に落ち着く。
2018-08-21 06:38:53批判的な意見。
もう引退したと思われていた福嶋亮大先生w は、自分と渡部の関係辺りを上手くさらりと流して、諸々に八つ当たりしまくっているなぁ~ ダメだよ福嶋先生、ちゃんと大澤聡や佐々木敦らと一緒に渡部持ち上げたことを精算しないと。
2018-08-18 21:33:55福嶋亮大の文章、前半はダメだろう。反省的な視点が一切ないし、センシティブな話題なんだから資料の取り扱いは厳重注意なのに、私信からハラスメントの免責をほのめかすのは最悪手に近い。後半はわからなくもないが、結局評価基準が一昔前の表象不可能性批判なあたりに、ある種の限界を感じなくもない
2018-08-19 02:49:33なげえ。佐々木敦の持ち上げ芸と対比させるMe Tooの告発芸みたいな語り口が雑。ものごとは個別に見ても怒りを持てる場合にだけ社会現象として批判して良いのでしてね。 文壇の末期的状況を批判する realkyoto.jp/article/fukush…
2018-08-19 06:09:28福嶋亮大氏は、この『文壇の末期的状況を批判する』で渡部直己氏のセクハラ問題をうけて次のように述べています。 「文学とはMe Tooと言った瞬間に消えてしまう繊細なものを捉えるための表現手段である。」 この言明にこそ、むしろ「末期的状況」の原因を僕は感じ取ります。 realkyoto.jp/article/fukush…
2018-08-19 07:10:54続けて福嶋氏は述べます。 「このシンギュラー(単独的)なものの手触りを抹消したとき、文学はポリティカル・コレクトネスに――つまりわざわざ文学的な装置を使わずとも言える道徳的な言葉に――還元されるだろう。それは文学の自殺にほかならない」 これは正しい。 では #MeToo は「道徳的な言葉」か?
2018-08-19 07:10:56道徳的には「性的な出来事はみだりに公言してはいけない」ものでしょう。それを公にする #MeToo は決して道徳的ではない。 むしろそれはそのような「道徳的」正しさに還元され無言と化していた「繊細な単独的なもの」を言葉にするための闘いへの励ましです。ならばそれこそ「文学」に値するでしょう。
2018-08-19 07:10:57福嶋氏の文学観は正しい。なのに「繊細なもの」「単独的なもの」を、どうやら男にだけ割り振って、それに対して女が団子となって「わあわあ」言うのが #MeToo だという認識で整理されている。 どこでそんな錯誤が生まれてしまうのかを考え、まず誰もにこの講演を紹介します。 ted.com/talks/emily_na…
2018-08-19 07:10:57性教育者のナゴスキーはここで「望まない性的興奮」という現象を語ってます。男女の関係の何らかの《証拠》は肉体には帰せない。ではどうすれば相手が自分を受け入れているかどうか知ることができるか? 彼女の回答は簡単です。 男が女の言うことを「真実」として聞くだけでいい。言葉を信じればいい。
2018-08-19 07:10:58でも女が嘘をついたら?「好き」と言って本当は嫌いで後で告発されたら?と男たちは言う。そこにリスクはある。でも女たちは《「嫌」と言ってもそれを本当のこととして信じて「くれない」男たち》を相手にするリスクをずっと生きてきている。なぜ男だけが「言葉を信じない」余地を許されるのでしょう?
2018-08-19 07:10:58男女における「言葉の真正性への責任」の割り当ての不均衡ーー男は女を信じなくてよく、だが女は男を信じなくてはいけないという不均衡ーーが、福嶋亮大氏の正しい文学観を《男は繊細で単独的だが・女は団子でわあわあコレクトネスを言う》という偏向した認識へと歪ませてしまっているのだと思います。
2018-08-19 07:10:59まさにそこで女の繊細で単独的なものの読み取りを拒んでいる。しかもそれに無自覚なわけで、それによってこそ福嶋氏は自己の文学観を「自殺」させていることになるでしょう。いや、何の内省もない以上ただの事故死です。断崖に向かって楽観的に歩いて落ちただけに過ぎない。 それこそ「末期的」です。
2018-08-19 07:10:59発売中の『すばる』に発表した拙稿は実は渡部直己氏への批判が執筆にあたってのひとつの動機となっていました。 ただセクハラ問題発覚以前に書いていたのです(校了時期で事実とわかる筈)。ではどういう批判を意図していたのか? 僕は、渡部氏の『蒲団』の読み取りは間違いだ、と言いたかったのです。
2018-08-19 07:11:00渡部氏の『日本小説技術史』の『蒲団』の読み取りは、まさに技術への目配りを欠くことで致命的読み損ねをしています(それは拙稿に書きました)。その事態は福嶋氏の言う「文学的な装置」を彼が対象化できなかったことを示してます。技術が主題の論考でなぜ『蒲団』の技術を渡部氏は読めなかったのか?
2018-08-19 07:11:00福嶋氏の言明に示されたのと同じく渡部氏にとっても「文学的な装置」は男である自己に都合良い「真実」を語り・読むためのものでした。だから『蒲団』の《苦しむ男の真情を書く技術》の工夫が読めない。その鈍さに渡部氏の《男女における「言葉の真正性への責任」の割り当ての不均衡》が反映している。
2018-08-19 07:11:01渡部氏にとっての「言葉」がそういうものなら、それは、セクハラや・合意を欠く彼だけの「正しさ」を容易に自己肯定させるものでしょう……だけど『蒲団』はそれと逆のものだ、と、僕は潜在的な渡部氏批判の原稿を書き『すばる』に送った。その後でセクハラが発覚した時に僕の驚きはありませんでした。
2018-08-19 07:11:01福嶋氏は「文壇の末期的状況」を言いますが、それは「文壇」的「文学的な装置」の限界でしかない。 #MeToo や #私がエビデンス こそが「繊細な単独的なもの」を語り始めた「新たな文学的な装置」で、それを殺すのが「文壇」だという構造を渡部氏は示しましたが、そんなものは決して「文学」ではない。
2018-08-19 07:11:02拙稿で渡部氏を名指してない以上、現時点での批判は卑怯と言われるかもしれませんが、書いた時にセクハラは公ではなかったのです。でも渡部氏への告発の事実と関係なく、文壇的な「文学的な装置」の在り方が批判されるべき事態は、元々あった問題の発露として生じたものでしかないと言うべきでしょう。
2018-08-19 07:11:03文壇が末期的状況なのは何故か?近代文学の「文学的な装置」が男が語り・聞くことを特権化してきたからです。必要なことはギルド的な「オトシマエ」ではなく、無言へと還元されていた女・少数者が語り始めた「繊細な単独的な」声を「文学」がどう包摂しうるか、厳しく向き合うことではないでしょうか?
2018-08-19 07:11:04こういう「文学とは〇〇だ」「文学とは〇〇ではない」みたいな言い方こそ、文学の幅を狭めてくだらなくするものであって、近代小説中心主義の悪しき産物だと思う。「文壇」なんて20世紀の遺物よね。 / “文壇の末期的状況を批判する-REA…” htn.to/Tz4Kqs
2018-08-19 10:19:42あの、近代小説しか読まない人たちによくある「文学とは〇〇なものだ」みたいなことをとくに留保とか注意もなしにやすやすと言っちゃうナイーヴさ、私は全く理解できないのですが、なんなんですかね。てめえの定義でいけばシェイクスピアもダンテもソフォクレスも文学じゃなくなるぞって感じのやつ。
2018-08-19 10:22:26個人的には、中国文学とか古典とかにも触れているはずの人が「文学とは〇〇だ」的なことを言っちゃうのにはすごい危機感がある。「文学とは〇〇だ」みたいなことを留保なしかつマジメに言うたびに文学は狭くなり、つまらなくなり、古典から切り離される。
2018-08-19 10:31:28福嶋亮太さんの記事。ゼロ年代から文章を知っているからか、職業病からか、内容よりも「文体が変わった」「芸風が変わった?」などが気になってしまう。人のことは言えないけれども。 「文壇の末期的状況を批判する realkyoto.jp/article/fukush…
2018-08-19 10:30:28