文学でも芸術でも想像でも空想でも妄想でも幻想でも虚構でも欺瞞でも装飾でも論理でも防壁でも開放でもない、ただそこに起こってしまっただけの感情という名の行動原理。
2011-04-26 23:38:01どんな簡素な言葉を吐いたとしても、飾り立てているようにしか見えない病気ですが、いくら嫌悪したところで言葉を吐き続けなければ生きていけない病気でもあります。
2011-04-26 23:52:00自分っちうものは、好き嫌い以前に当然受け入れるべきものとして存在してしまっているので、正直なところ好き嫌いの次元で考えることができないですね。なのでぼくはぼくであることが当然というか、どうあろうとも自分であることから逃れられないって言うわけです。
2011-04-26 23:54:12ただ、やはり綺麗や醜悪などといった評価対象ではあるので、そういった基準で自分を見れば醜悪だと思いますし、そこを挟めば「醜悪だから嫌いだ」という判断を下せます。ですが嫌いという判断だけを審査すると、「ぼくはぼくのことが嫌いか?」という問いになって「そうではない」となる。
2011-04-26 23:56:35醜悪なものは嫌いだが、醜悪だと思う自分は嫌いではない。A=B、B=Cでも、A=Cにならないのは単にこれが感情による思いというだけだから。話しぶりが理論的であろうと、感情を含んだ話が論理的であるわけがない。だからおおよそ矛盾と呼ばれるものはそもそも矛盾ですらないのかな。
2011-04-26 23:59:18といった具合に、思考を少しずつ他方へずらしながら自分の中でとりとめもなく話を進めていくのですが、こういう連鎖的思考を他人に対しても使ってしまうのでぼくの話は大抵長くなるのです。朝三暮四、という言葉がありますが、ぼくは朝七暮無くらいの勢いでないと気がすまない性質なのでしょう。
2011-04-27 00:02:03他人の気を引きたいかと言われれば、勿論イエスです。他人に構われるのは心地が良いですし、何より単に寂しい心を紛らわせることができますし。気恥ずかしさから他人との接触を拒むのは、ぼくとしてはもったいないと思う。だから甘えられるときは全力で甘えますし。
2011-04-27 00:08:28そのくせ自分から他人を選ぶ。全方位に構ってほしいと言っておきながら、いざ構われると「あなたじゃない」「あなただ」と言う。まあこれも普通。普通ですよね? だが受け入れられるかは別。いわゆる上から目線をしている自分というのは受け入れづらい。
2011-04-27 00:10:46言葉にし、発したからと言って、その本人がその事実を受け入れているわけではない。「受け入れた」状態がどんなものかは説明しづらいが、少なくともただ考えを口で発しただけでは認められない。それは、単に自分の恥部を認めただけで、耐え忍んでいるだけだと思う。
2011-04-27 00:12:32受け入れることと耐え忍ぶことは違う。これは恐らく理解の範疇。だがいざ自分の中にある感情が、受け入れていることなのか耐え忍んでいることなのか判断するのはなかなかに難しい気がする。わかりづらい。
2011-04-27 00:14:04なのでまあ、例えるならば、世界で最も愛している人が赤の他人と結婚したときに、心の底から、自分の嫉妬や憎悪も含めた上で祝えるなら「受け入れている」と言えるのかなあと思う。けれどぼくはまあ今のままの状態じゃあ祝えないですね。ただこのまま時間がたつだけじゃあ無理。
2011-04-27 00:16:48なぜか。まあ向き合って貰ってないからですね。贅沢で、筋違いではありますが、向き合ってもらえていないと感じてしまう以上、納得できるものではない。
2011-04-27 00:18:09