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[軍都相模原] 相模陸軍造兵廠の遺構まとめ

神奈川県相模原市北東部、JR横浜線の相模原駅から矢部駅間沿いの傍らに広大な土地があるのをご存じでしょうか。そこは在日米陸軍の相模総合補給廠という軍事施設であり、通称『相模デポ』と言われていますが、かつてそこは「相模陸軍造兵廠」という大日本帝国陸軍の兵器工場が置かれ、主に戦車などの装甲車両を製造していたのです。それが終戦後に米軍によって接収され、現在も補給拠点として駐屯しているのです。しかしながら、過去の航空写真と現在の衛星写真と照合してみると、かつての日本陸軍の多くの建物をそのまま利用していることが判明しました。そこで私は軍都相模原の一角である相模陸軍造兵廠に残る陸軍の遺構を求め、相模デポの一般公開時に訪問した記録をまとめてみました。
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相模陸軍造兵廠

相模陸軍造兵廠とは

現在の相模原市中央区一帯にて昭和13年(1938年)に開庁した相模兵器製造所を、昭和15年に相模陸軍造兵廠と改称し、相模原軍都計画の一環として拡大しました。戦時中は陸軍造兵廠主力の一部として多くの戦車などを製造していましたが、昭和20年(1945年)の敗戦によって軍都相模原一帯が米軍によって進駐され、この造兵廠もその歴史に幕を閉じます。

相模総合補給廠 (相模デポ)とは

しかし、米軍が進駐した造兵廠跡に相模総合補給廠(通称:相模デポ)を新たに開庁、在日米軍への総合的な軍事サポートをする施設(陸軍、空軍、海軍、海兵隊4軍への小銃、糧食、野戦病院セット、各種工作車両などの物資が常時保管されており、アメリカによる世界戦略を支えている重要な施設)へと生まれ変わりました。

軍都相模原とは

1930年代後半、長らく市ヶ谷にあった陸軍士官学校(陸士本科)を相模原へ移転させる計画を立てました。当時の相模原は平坦な地が広大で地価が安く、なおかつ帝都にさほど遠くないという理由で選ばれたのです。しかし陸軍はそれに留まらず、座間に置かれた陸士本科(『相武台』と呼ばれました)を中心として様々な陸軍の施設を相模原へ集め、一介の農村であった相模原を軍事都市へと発展させようとしました。昭和14年(1939年)の相模原都市建設区画整理事業によれば、住宅区域、商業区域、そして軍需工業区域を含めたおよそ10万人が住む大都市を建設する予定でした。しかし第二次世界大戦の勃発により整備工事が進まなくなり、結局のところ幹線街路網を整備した時点で終戦を迎えました。

フォールフェスティバル

そんな戦略的に重要な軍事施設ですが、2018年10月7日、相模デポの一般公開が行われました。主な催し物として、マラソン大会やフードコート、ライブミュージック、ダンスパフォーマンスなどがありましたが、私はこれに乗じて相模陸軍造兵廠の遺構を探索するチャンスと思い入場しました。

相模陸軍造兵廠の遺構探索 (1回目)

というわけで入場しました。なお入場時には免許証、パスポートなどの写真付きの身分証明書が必要です。無いと門前払いされますのでご注意を。

魚交(さめ) @shark_ishi

総合補給廠到着。なにか見つかればいいが... pic.twitter.com/Qfrwt8nB1q

2018-10-07 11:02:37
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魚交(さめ) @shark_ishi

蓋のひとつやふたつ残っていればなあ。 pic.twitter.com/Q6ndidEeSN

2018-10-07 11:14:49
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魚交(さめ) @shark_ishi

それっぽいかなって期待したんですよ。 トイレでした。 pic.twitter.com/g93o4TqXtd

2018-10-07 11:18:05
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魚交(さめ) @shark_ishi

電通省の境界石を発見。電気通信省は昭和24年から27年のわずか3年しか無かったらしい。もしかして貴重? pic.twitter.com/7vQURqRjJA

2018-10-07 11:25:09
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大きな倉庫を覗いてみたらハンヴィー(HMMWV、高機動多用途装輪車両のこと、現在アメリカ軍で最も多く運用されている軍用車両です)がたくさん... 見てはいけないものを見てしまった気分でした。

魚交(さめ) @shark_ishi

何気ない倉庫の窓を見たら...これやばいやつ? pic.twitter.com/blViUoNjGX

2018-10-07 11:31:08
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魚交(さめ) @shark_ishi

いつも見ているだけだった横浜線の目線の中にいると思うと少し感動する。 pic.twitter.com/F28I83oWxW

2018-10-07 11:39:07
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もはやどれがどれだかわからなくなってしまいました。

魚交(さめ) @shark_ishi

もう全部造兵廠跡に見えてきた。 pic.twitter.com/iW4l8f1FYK

2018-10-07 12:41:23
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魚交(さめ) @shark_ishi

所々にも陸軍時代のものと思われる階段が多々あるが、それが実物かは証明できない。ネットで調べても、直接基地内部に入って調査したという人が少なすぎるのが悲しす... pic.twitter.com/patlU0b8d0

2018-10-07 12:58:55
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とりあえずわかるものだけ発見することができました。

魚交(さめ) @shark_ishi

相模神社。相模陸軍造兵廠隊内神社として昭和17年に建立された。2時間ほど歩いてやっと見つけた。 pic.twitter.com/vLKF9FSGvf

2018-10-07 13:15:12
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魚交(さめ) @shark_ishi

橋とか御手洗とか設置して神社内を再現しているんだけどこれどう見ても焼くやつだし、神社内でグリルすんのか... pic.twitter.com/S6NaHPSvOn

2018-10-07 13:20:54
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先に言っておきますが、これは遺構ではなかったです

魚交(さめ) @shark_ishi

これは当時ものに見える。 pic.twitter.com/zbGIFKXAHJ

2018-10-07 13:52:07
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魚交(さめ) @shark_ishi

しくみ的にもこれは当時ものに近い。 pic.twitter.com/P5aPMk9gpM

2018-10-07 13:52:53
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見るだけ見てって帰宅しました。
いちおう屋台のご飯だけ頂きましたとも。

魚交(さめ) @shark_ishi

結論 ・相模総合補給廠内に陸軍マークの消火栓、境界石、蓋などは確認できず。 ・陸軍時代の建造物らしきものはいくつか確認できたが、ネットなどで陸軍のものと確定されている建造物は確認できず。(戦車部品工場、組み立て工場、医務室など) ・謎のコンクリート群。 帰ったら昔の地図と照合します。

2018-10-07 14:06:01
魚交(さめ) @shark_ishi

相模総合補給廠のGooglemapと、1945年代の相模陸軍造兵廠の航空写真を比べたところ、建物の仕組みや大きさなどから、自分で確認したものだけでこれほどの建物が陸軍時代から使用されているとわかりました。ただし新たに建築した可能性もあるので、もし間違っていてもご了承ください。 #相模陸軍造兵廠 pic.twitter.com/Ytj3Az4QuX

2018-10-08 11:04:06
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造兵廠の資料探索

後日、造兵廠関係の資料を探すため淵野辺駅南にある相模原市立博物館を訪問してみましたが、そこで驚愕の資料を発見しました。ネタばらしすると、『米軍基地に行く前にここへ行っておけ』となりました。

魚交(さめ) @shark_ishi

こういうのあるんだったら最初に言って相模原市さん。 #相模陸軍造兵廠 pic.twitter.com/apDJ036LzZ

2018-10-12 13:27:23
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相模陸軍造兵廠の遺構探索(2回目)

という訳で2回目の探索となります。が、今回は一般公開時には見られなかった補給廠外周に見える遺構を探しに行きました。

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