#西郷どん 感想+補足まとめ 第四十三回「さらば、東京」明治六年政変。大久保正助をどげんして憎めちゆうのか。西郷と大久保、永の別れ。

三週間ぶりの町田先生の解説(拝)。
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Piccolo_Rapid-exp3323 @piccolo3323

#西郷どん 薩摩閥の筆頭が大久保利通になるが、私財投じて政府盤石を試みていることを知れる同郷の人も少なかったと拝察する。 気軽に声をかける様な雰囲気でなかったとするところから察して… 後にわかるが、私財投じていたため、かなりの借金があった。 知った債権者は、取り立てなかったという。

2018-11-18 21:06:09
Piccolo_Rapid-exp3323 @piccolo3323

#西郷どん 西郷下野後、辞職者は600人ほどというから、影響力がいかに大きかったか… ただ、東京に留まった人も多い。 西郷隆盛は、「自身の役目は終わったが、みんなは…」と思っていたであろう。 自身は去っても、政府で活躍してほしいと思っていたはず。

2018-11-18 21:01:12
Piccolo_Rapid-exp3323 @piccolo3323

#西郷どん 島津久光の左大臣歴任を見るところ、西郷下野後と確認できた。 佐賀の乱の翌年に辞任とある。 保守的な考えは、政府の面々と合わなかったらしい。

2018-11-18 20:54:53
Piccolo_Rapid-exp3323 @piccolo3323

#西郷どん 大久保利通の側近でいれるのは、西郷従道と大山巌でなければと考えたのは、西郷隆盛であった。 下野に従うつもりであった従道は、「よかよか」と隆盛がいつも言ってくれていたので、ビックリしたであろう。 だが、この選択は子息の活躍につながる。 菊次郎や寅太郎、勇袈裟も…

2018-11-18 21:12:28
Piccolo_Rapid-exp3323 @piccolo3323

#西郷どん 西郷従道や大山巌が東京にいる中、村田新八と西郷小兵衛は西郷隆盛の側近として支えた。 これは、従道と小兵衛との間で取り交わされたものとも聞く。 兄弟は仲違いなどしなかった。

2018-11-18 21:16:36
Piccolo_Rapid-exp3323 @piccolo3323

#西郷どん 大山巌も村田新八も、西郷下野後に帰国。 自身の次世代にと考えていた大久保利通は、新八の帰郷及び、西郷隆盛の側近を務める道を選んだと知り、愕然としたという。 その新八が、大山巌に大久保の側近でいることを説得、西郷隆盛も後押ししたとされる。 後に新八が弥助を批判するは間違い?

2018-11-18 21:20:46
おほしんたろう @ohoshintaro

#西郷どん 見終わったらdボタン押して #モウ想せごどん #西郷どん 見終わったらdボタン押して #モウ想せごどん #西郷どん 見終わったらdボタン押して #モウ想せごどん #西郷どん 見終わったらdボタン押して #モウ想せごどん #西郷どん 見終わったらdボタン押して #モウ想せごどん #西郷どん 見終……

2018-11-18 21:10:47
好いーと九州 @suito_kyushu

これは東京・青山霊園の大久保さんのお墓。ここには他にも幕末の英雄たちの墓が多数。 もう1枚添付したのは、佐野常民・駒子夫妻の墓です。 最後の写真は、再び鹿児島。私学校跡です。 西郷どん、ずっと観てませんでしたが(^-^;後半は最後まで観ようと思います。(2/2) #西郷どん #大久保利通 #鹿児島 pic.twitter.com/pabdpA1s5b

2018-11-18 20:56:29
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魔神ガロン @MAJIN_GARON

大久保利通も日本の未来を憂う大物だったのは間違いない。 2017年9月、鹿児島市に慰霊塔が建てられた。西南戦争から140年後の和解……、悲しいものです。 ちなみに人を呼ぶ時の「おい」は鹿児島弁で、明治の警察には薩摩出身が多かったせいで浸透していった言葉。 #西郷どん pic.twitter.com/rk4dUgbmXh

2018-11-18 20:54:34
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元祖ぱずる屋さん @puzzleyasan

#肥前さが幕末維新博覧会 で好評販売中の佐賀七賢人ジグソーパズル、江藤新平もしっかり入っています!佐賀へお越しの際はぜひお求めください! #元祖ぱずる屋さん #西郷どん pic.twitter.com/ITYxrZAvwy

2018-11-18 21:10:24
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今週の町田先生「三週間ぶり」

町田 明広 @machi82175302

「西郷どん」43回目を拝見!本日は明治6年政変がメインでした。冷徹な政治家と化した大久保と、あくまでも情で推す西郷の激突、そして分かり合えたもの同士の別れの場面、実に見ごたえがありました。なお、ストーリー自体はドラマとしての脚色が中心です。 #西郷どん

2018-11-18 20:45:24
町田 明広 @machi82175302

西郷の朝鮮派遣問題に入る前に、その前提となった当時の日本が抱えていた外交問題について触れておきたい。廃藩置県が成功して文字通りの維新が断行され、内政が軌道に乗り始めると、いままで等閑視されてきた近隣諸国との問題点が改めてクローズアップされ始めた。#西郷どん

2018-11-18 20:46:01
町田 明広 @machi82175302

当時、日本人を憤慨させながらも、我慢してきた外交問題が3点存在した。最初の問題は、朝鮮との国交問題である。新政府は政権が変わったことを朝鮮に伝え、江戸幕府と同等な交際を求めたが、朝鮮はこれを拒否し、急劇に欧化する日本を非難したため、木戸孝允を中心に征韓論が台頭した。#西郷どん

2018-11-18 20:46:33
町田 明広 @machi82175302

さらに、在留邦人への迫害も始まり、こうした朝鮮の無礼な振る舞いを見過ごすことができなくなっていた。次に、台湾征伐に関わる問題である。遭難して台湾に漂着した琉球船の乗組員が、台湾原住民によって殺害された「琉球漂流民殺害事件」について、日本政府は清朝に厳重に抗議した。#西郷どん

2018-11-18 20:46:58
町田 明広 @machi82175302

しかし、台湾は化外(統治が及ばない)として、清は日本との交渉に応じなかった。そのため、我が国では台湾を打つべしとの征台論が巻き起こっていた。そして、最大の難問がロシアとの樺太国境問題であった。#西郷どん

2018-11-18 20:47:16
町田 明広 @machi82175302

幕末以来、樺太国境の交渉は継続して行われてきたが、合意に達することはできず、両国民の雑居地としたたため、争いは絶えなかった。しかも、明治以降のロシアの南方への侵出は、容認できないレベルに達していた。#西郷どん

2018-11-18 20:47:43
町田 明広 @machi82175302

そのため、外務卿副島種臣は函館でロシア公使と交渉するなど、解決に向けた努力を重ねていたが、開拓使次官黒田清隆は樺太放棄を主張しており、足並みが乱れていた。しかし、日本人に対する暴行などの迫害行為が頻発しており、待ったなしの険悪な状況となっていた。#西郷どん

2018-11-18 20:48:06
町田 明広 @machi82175302

この中で、西郷は朝鮮問題を取り上げた。その理由は、幕末以来、征韓問題は継続して議論されており、地理的にも近いこと、また、イギリスもアメリカも朝鮮出兵には好意的であったことによる。#西郷どん

2018-11-18 20:50:22
町田 明広 @machi82175302

しかも、明治6年(1873)6月、朝鮮在留の外交官から改めて朝鮮側の対日強硬姿勢が伝えられ、西郷には渡りに船となった。閣議において、土佐藩閥を代表する板垣退助は即時派兵を訴えたが、西郷は異議を唱え、いきなりの派兵は疑惑を招き、交渉はうまくいかないと述べる。#西郷どん

2018-11-18 20:52:58
町田 明広 @machi82175302

そして、西郷はまずは自ら使節となって朝鮮に赴き、公理・公道をもって説得すれば、朝鮮も悔悟して反省し、国交を結ぶことに応じるだろうと主張した。このあたり、西郷が遣韓使節を願い出た経緯について、ドラマではやや唐突感があったか。#西郷どん

2018-11-18 20:53:49
町田 明広 @machi82175302

三条実美が西郷に護衛兵を付けるとことを提案したが、西郷は、万が一朝鮮側を説得できず、使節を冒涜し殺害でもすれば、その時こそ朝鮮の罪を世界に訴えて、出兵すればよいと主張した。西郷はあくまでも、武装せず礼装で赴くことにこだわった。#西郷どん

2018-11-18 20:54:39
町田 明広 @machi82175302

西郷は、大義名分が乏しい派兵には断固反対であり、いきなりの派兵は、公理・公道を逸脱する野蛮な行為と見なしていた。西郷にとって、そこを押さえた上での出兵(征韓)でなければならなかったのだ。#西郷どん

2018-11-18 20:55:37
町田 明広 @machi82175302

そもそも、不意を突いて敵陣に単独丸腰で乗り込み、話し合いに持ち込んで決着を図るのは、幕末以来の西郷の交渉スタイルであった。この時も、事態の打開はこれしかないと確信していたのだろう。#西郷どん

2018-11-18 20:56:21
町田 明広 @machi82175302

また、交渉が決裂した場合、行き場に困っている士族を派兵することで、活躍の場を提供して救済することが可能であり、その不満を外に向けさせ、内政の安定を図ることができると西郷は確信していた。#西郷どん

2018-11-18 20:57:11
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