戦う聖徳太子

松本真輔「中世太子伝と合戦譚」を読みまして、そのなかから中世以後に広まった聖徳太子伝に見られる、武威に優れ合戦を主導する聖徳太子像について面白いなと思った部分をつぶやいたまとめ。
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銅折葉 @domioriha

ところで先日例によって聖徳太子をググっていたところ、中世になって成立した太子伝の中には太子が10歳の時東夷征伐に向かって30人がかりでも持ち上がらない大岩をぶん投げたとか向こうから飛んできた岩を叩き落としたとか一人で敵軍壊滅させたとかそういう話があるんですね。

2019-04-04 19:39:36
銅折葉 @domioriha

聖徳太子が黒駒に乗って空を飛んで富士山に行ったという話はそこそこ伝暦とかで有名ですが、その時富士山の煙の中に仙女をみつけて、これはいわゆるかぐや姫であり何を隠そう聖徳太子の祖母に当たる……みたいな話も中世太子伝にはあるんですね。(『正法輪蔵』の「九才仙女事」)

2019-04-04 19:42:17
銅折葉 @domioriha

聖徳太子が幼い時に学んだのは「張良一巻」書であり、これは身につけると超人的な武威や力を発揮し八尺の壁を駆け登り空を飛ぶこともでき、太公望が身につけていたのだとする太子伝もあるそうな。 中世聖徳太子伝と油日神社の縁起 : 聖徳太子の兵法伝受譚と武人としての太子像 doi.org/10.20620/nihon…

2019-04-04 19:45:55
銅折葉 @domioriha

物部守屋は死後怨霊となり、聖徳太子二十二歳の時群れなす大魚になって四天王寺に押し寄せ高波をおこしてこれを破壊した。また赤斑の鳥の群れになって仏閣を破壊した。四天王寺が玉造から荒陵に移転したのはこのためである。叡山文庫蔵太子伝より。

2019-04-07 14:05:57
銅折葉 @domioriha

守屋の寺ツツキ伝承は知ってたけど四天王寺を破壊するところまで話が大きくなった話があったのか。 twitter.com/domioriha/stat…

2019-04-07 14:07:07
銅折葉 @domioriha

聖護院には物部守屋供養のため納められた仏像があり、これは毘沙門天の像である。太子伝玉林抄より。

2019-04-07 14:13:42
銅折葉 @domioriha

物部守屋は聖徳太子の前世から彼と常に付き従う影であり、仏法を日本に広めるための太子の怨敵の役割担う権化、地蔵の化身であった。顕真得業口決抄ほか。#神とルシフェルみたいになってきたぞ

2019-04-07 14:18:36
銅折葉 @domioriha

丁未の乱で物部守屋が「物部府都(もののべふと)大神之矢」を放ちこれが太子の鎧に当たった。太子はこれに「四天王之矢」を撃ち返して大賊守屋の胸を射貫き、樹から射落とした。秦河勝は進み出て守屋の首を斬った。上宮聖徳太子伝補闕記。 古代の弾幕戦。物部府都大神って触れてる作品少ないと思う。

2019-04-07 14:25:55
銅折葉 @domioriha

物部守屋は死ぬ直前、これで仏法興隆の願いが果たされたと言い残し、秦河勝がこれに応えて衆生を仏道に入れると返し、守屋は満足して死んでいった。橘寺法空の上宮太子拾遺記。#仏法世界実現のクライマックス的最後の審判的ななにかだろうか twitter.com/domioriha/stat…

2019-04-07 14:30:37
銅折葉 @domioriha

太子が仁と徳にあふれる仏法守護者的性格が強調されるにつれ、物部守屋の殺生が問題とされ、その解決のため守屋の殺害を正当化や仕方ない犠牲とする言説が変化して、そもそも守屋は敢えて悪役となり無知な衆生を導いたとされ、仏法を広めることこそが彼の真の願いだったとされるようになったという話。

2019-04-07 14:37:27
銅折葉 @domioriha

こうした守屋の怨霊化、さらには守屋は地蔵の化身であり仏法を興隆することが真の願いだったとされるなかで、守屋の供養や鎮魂が行われ、法隆寺と四天王寺がそれぞれ別の守屋の首を斬ったという太刀を伝えているというややこしいことになってきている。 twitter.com/domioriha/stat…

2019-04-07 14:43:03
銅折葉 @domioriha

つまり物部守屋は二人いた! あるいは首が二つあった! twitter.com/domioriha/stat…

2019-04-07 14:43:43
銅折葉 @domioriha

与太話はさておき、法隆寺と四天王寺が聖徳太子信仰の主流争いをして、当初四天王寺に対して出遅れていた法隆寺が、太子ゆかりの「宝物」を多数開帳して支援を求め、その努力が実って法隆寺も地位を固めていったという経緯に由来しているという話。

2019-04-07 14:47:02
銅折葉 @domioriha

後の世の仏法の中における各寺の描く聖徳太子によって、物部守屋の首が二つに増えてしまった、ということもできなくもないよね。 twitter.com/domioriha/stat…

2019-04-07 14:49:02
銅折葉 @domioriha

聖徳太子伝暦の太子は、蝦夷や新羅など、境界を越えてくる侵略者(と、設定されている存在)を撃退し従える、領域の守護者でもあった。 幻想となった聖徳太子太子はつまり、幻想郷の結界を守る存在でもある……?

2019-04-07 15:08:13
銅折葉 @domioriha

戦う聖徳太子 - Togetter togetter.com/li/1335615 @togetter_jpさんから 松本真輔「中世太子伝と合戦譚」の話をもう少し。

2019-04-07 22:09:32
銅折葉 @domioriha

聖徳太子の伝説が広まっていく中で、太子は最初のうち、仁と徳をもつ仏教守護者として殺生を禁じ争いをやめさせる聖人としての評価を広めていくわけですが、聖徳太子すごい伝説が増えていくうち、子供の頃から足が速く何十メートルもジャンプし弓を射れば百発百中という才能が示されたり、

2019-04-07 22:11:39
銅折葉 @domioriha

史実では太子はなんにも関与してなかった(当時10歳)、敏達10年(581年)に辺境に攻めてきた蝦夷に対して敏達天皇が武力を持って交渉し服従させたという話に、太子が「争いはいけないことですから話し合いで彼らにも大和に従うよう説得しましょう」と言い出す話が加わっていく流れがあり。

2019-04-07 22:15:08
銅折葉 @domioriha

こうやって仏教側面における太子すごい伝説が広まっていくと、それに合わせてできた「太子はこんなにすごい人やったんやで伝説」が次第に一人歩きを始め、中世(1200~1400年頃)には太子自身がすごい武術や軍略の天才だったという太子伝が多く広まり始めていったそうです。

2019-04-07 22:16:50
銅折葉 @domioriha

これらの太子伝では太子は剣や馬術、弓矢に優れていたので軍を率いて物部守屋を討伐に向かい、守屋を射落としたのも太子であるとされていたり、その活躍はヤマトタケルになぞらえられているという指摘もあるそうな。(ヤマトタケルは仲間に弓矢の使い手を探しているので太子はさらにすごいスーパーマン

2019-04-07 22:19:36
銅折葉 @domioriha

で、さっきの蝦夷が攻めてきた話に至っては、太子が自ら軍を率いて東に向かって出陣し彼らの軍勢を撃退する話になり、すごいのになると300人がかりでも持ち上がらない巨岩を太子が持ち上げてお手玉して敵陣へ投げつけ、向こうからの投石は鞭で弾き落として敵陣に撃ち返すという神業をこなし、

2019-04-07 22:21:54
銅折葉 @domioriha

神通力を込めた矢を放てば、雷鳴の如く鳴り響きながら敵の城のまわりを七回巡り天地を揺るがしただとか、馬に乗って走れば聳える山の峰を走り大岩を踏み砕いたという圧倒的なパワーに、「あんなもので攻撃されたら一撃で何百人も死んでしまう」と蝦夷たちがひれ伏すという話になっていて。

2019-04-07 22:24:59
銅折葉 @domioriha

「もう太子一人でいいんじゃないかな……?」という感じで、キミらなんのために軍隊率いていったのと疑問に思うレベルの太子ひとりの活躍で、蝦夷は全員降伏して服従してしまうという話が展開されます。(さりげなく反乱の場所もやまとに近い地域に変わっていて危機も煽られている

2019-04-07 22:26:37
銅折葉 @domioriha

中世太子伝において太子が戦った戦争として位置づけられるのはこの東夷との戦い、次に物部との戦い、そしてもう一つが太子が30歳の頃の新羅派兵の話。これも日本書紀などでは群は動かしたものの新羅には軍は派兵されてたとは書かれておらず、結末もはっきりしないんですが、

2019-04-07 22:31:41