編集部イチオシ

仏教伝来~物部宗家の滅亡。

とりあえずまとめました。
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真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

磯城島金刺宮跡。欽明天皇の宮である。欽明帝の頃、百済の聖明王から仏教が公式に伝来した。しかし朝廷内部では仏教受容に関して意見が割れた。 pic.twitter.com/MXJsJtzGAU

2019-01-04 01:57:59
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大和朝廷の大豪族の蘇我氏は仏教受容について賛成だった。しかし大豪族の物部氏と中臣氏は否定的な立場を取った。 pic.twitter.com/C2WyeX54Jd

2019-01-04 02:04:23
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中臣鎌子と物部尾輿は「我国には既に八百万の神がいるのに、海外の神を祭れば八百万の神の怒りを買い、我国に災いが起こるだろう」と言い仏教受容に反対した。欽明帝はひとまず受容派の蘇我稲目に百済から来た仏教を預けて崇拝させ、様子を見ることにした。 pic.twitter.com/hWD2y2EyHL

2019-01-04 02:14:52
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難波池。蘇我稲目が仏教崇拝を始めて疫病が起きた。物部尾輿らは仏教のせいだとし、欽明帝の許可を得て稲目が崇拝する百済から来た仏像を難波の堀江に捨てさせた。 pic.twitter.com/VodD4HOEDI

2019-01-04 02:32:02
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向原の家跡。蘇我稲目は向原の家を清めて寺として百済の仏教を安置して崇拝した。しかしその後疫病が流行った時、疫病は仏教崇拝が原因とされ物部尾輿によって向原の家は焼き討ちを受けた。 pic.twitter.com/RJVTjLMNJ1

2019-01-04 08:24:54
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善光寺。物部尾輿によって難波の堀江に捨てられた仏像は、その後本田善光という人物によって発見される。本田善光は仏像を信濃に持ち込み御堂を開き祭った。それが善光寺の起源譚である。 pic.twitter.com/Duif8chk0h

2019-01-04 08:46:12
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見瀬丸山古墳。欽明天皇の真墓とされる前方後円墳である。石室内部には石棺が2つあり、一方は欽明帝、もう一方は欽明帝の妃である堅塩姫の石棺であると考えられている。 pic.twitter.com/P90hekvEZQ

2019-01-04 09:05:36
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都塚古墳。蘇我稲目の墓とする説のある古墳である。正月になると金色の鳥が現れて鳴くという伝承があることから「金鳥塚」とも呼ばれる。 pic.twitter.com/68k0Faj1uP

2019-01-13 09:31:53
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欽明天皇は571年に崩御した。結局蘇我稲目と物部尾輿の崇仏論争は決着が着かないまま終わった。決着が着かないまま次の世代へ持ち越された。 pic.twitter.com/YPgsd6MUqp

2019-01-04 09:23:39
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用明天皇墓。用明天皇は前代の排仏派だった敏達天皇と異なり崇仏派として知られ、用明帝の頃から仏教の隆盛が始まった。しかし用明帝は即位して3年で疱瘡で崩御してしまった。 pic.twitter.com/PHMLgcOQKl

2019-01-04 17:07:08
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藤ノ木古墳。法隆寺が代々墓守を続けてきた古墳である。玄室には石棺が2つあり男性2人が被葬されていた。被葬者は蘇我馬子に殺された穴穂部皇子と宅部皇子なのだろうか。 pic.twitter.com/vysZBO0BuN

2019-01-04 17:43:37
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穴穂部皇子は排仏派の物部守屋と手を組んでおり、用明天皇の次の皇位を狙っていた。物部守屋は穴穂部皇子を次期天皇にしようと企んでいたが、蘇我馬子に先手を打たれて穴穂部皇子は誅殺されたのだ。 pic.twitter.com/NnVaHI78vD

2019-01-04 18:02:53
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587年7月、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼす為についに動き出した。物部守屋も自身の屋敷を要塞化して追討軍に備えた。丁未の乱である。 pic.twitter.com/Kn2rs896Yl

2019-01-04 18:22:35
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稲城跡。物部守屋は本拠地河内国の阿都の桑市という所にあった自身の屋敷に城を構えた。その城は稲で囲ってあった為「稲城」と呼ばれた。 pic.twitter.com/3SjJNRHtLu

2019-01-04 18:32:04
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樟本神社(南木本)。樟本三座の一社。物部守屋の稲城には榎木があったので稲城は「榎木城」とも呼んだ。その「榎木」の言葉が訛って後世このあたりを「木本」と呼ぶようになったという。 pic.twitter.com/lyKgMb3XKN

2019-01-04 18:46:26
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樟本神社(木本)。樟本三座の一社。稲城内に守護神として布都御魂が祀られていたという。 pic.twitter.com/p3ehIVuolZ

2019-01-04 18:54:48
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物部守屋は榎木によじ登り、自ら矢を放った。雨のように降る矢に蘇我馬子の軍勢は三度撃退された。 pic.twitter.com/67IuifrMwx

2019-01-04 19:33:27
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神妙椋樹苑。当時16歳の聖徳太子は敵の物部軍に囲まれ窮地に陥っていた。その時、椋の大木が二つに割れて太子を包み込み物部軍から守ったという。 pic.twitter.com/lg90v8SWru

2019-01-04 19:44:55
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聖徳太子は白膠木を刻んで作った四天王像を頭に挿してこのように言った。「いまもし我をして敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」 pic.twitter.com/YgiLPCnjTl

2019-01-04 20:07:01
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この戦いは仏教受容を巡る物部氏と蘇我氏の最後の死闘だった。聖徳太子は四天王の祈願を矢に込めた。その神聖なる矢は迹見赤檮という人物に渡された。 pic.twitter.com/wiJ0jQoVzw

2019-01-04 20:15:01
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物部守屋墳墓。神聖な矢を聖徳太子から預かった迹見赤檮は物部守屋のいる榎木に忍び寄った。守屋は迹見赤檮に射殺された。 pic.twitter.com/IUuh81q4TP

2019-01-04 20:23:36
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鏑矢塚。迹見赤檮は物部守屋を射殺した矢を近くに埋めた。「鏑」とは先端が植物の「かぶら」のような形をした矢のことである。 pic.twitter.com/gQN0APglMY

2019-01-04 20:28:07
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弓代塚。迹見赤檮は物部守屋を射殺した弓を埋めた。迹見赤檮は矢と弓を別々の場所に埋めたようだ。 pic.twitter.com/FOBeVBGBEd

2019-01-04 20:31:34
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楠本神社(北木本)。楠本三座の一社。この神社境内の「守屋池」と呼ばれる池は、秦河勝が物部守屋の首を主君の聖徳太子の見参に入れる為に洗ったとされる池である。 pic.twitter.com/gYZbJexBYp

2019-01-04 21:10:04
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