上田紀行氏の語る震災と震災後
- waferwader
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以上、今日の中日新聞・東京新聞の朝刊に掲載された、「『救いの力』の復活を(上) 大震災から再創造へ 悲しみを共有し信頼を取り戻す」 http://bit.ly/fU7AxU でした。
2011-04-16 22:01:06このところ毎週、震災関係の論考を新聞に出しています。3/30毎日新聞、4/8朝日新聞、4/18中日・東京新聞、すべてホームページにアップしていますので、どうぞご覧ください。http://bit.ly/9DT677
2011-04-16 22:23:41今朝の中日新聞・東京新聞朝刊に、「『救いの力』の復活を(下) 重なり合い、補い合う 寺院のネットワーク活用」を書きました。朝日新聞にも書いたお寺の潜在的可能性、そして今回はダライ・ラマの「慈悲からの怒り」にも触れました。
2011-04-23 10:45:24サイババが亡くなった。20年ほど前にお宅を訪ねて1時間ほどお話をうかがったことがあった。穏やかな話しぶり、貧しい人たちへの慈善事業、そして真偽の議論のあった超能力と、とても不思議なグルだった。
2011-04-24 16:59:53ありがとうございます。現在の出来事を未来への教育として捉える視座が、私たちには必要なのだと思います。ぜひご一緒しましょう! RT @ken_terawaki 今朝の東京新聞の文章に深く共感しました。私も震災後の教育という面から考えているところです。一度ご一緒したいものです。
2011-04-24 17:05:56土曜日の中日新聞、東京新聞朝刊、「『救いの力』の復活を(下) 重なり合い、補い合う 大きな可能性持つ寺院ネットワーク」をホームページにアップしました。どうぞご覧ください。http://bit.ly/fYf5e7
2011-04-25 08:21:54土曜日の中日新聞、東京新聞朝刊、「『救いの力』の復活を(下) 重なり合い、補い合う 大きな可能性持つ寺院ネットワーク」を連ツイにてお届けします。http://bit.ly/fYf5e7
2011-04-25 08:24:463.第二次世界大戦における軍事的敗戦。バブルの崩壊という経済的敗戦。そして、その敗戦後の施策を間違え、人間相互の絆を犠牲にしてまでも、更なる社会の「経済化」を目指したことによる、信頼の崩壊という第三の敗戦である。
2011-04-25 08:27:134.この震災で亡くなられた方とほぼ同じ数の人たちが、毎年自分の命を絶つような国となってしまった日本。その社会の構造を、この震災の復興の中で同時に変えていかなければならない。
2011-04-25 08:27:315. 「救いの力」の復活はいかにして可能になるだろうか。それは単なる一つの要因では成し遂げられない。拡がる経済的格差の是正はもちろん重要だ。しかし経済のみに依存する「救い」では、逆に経済の破綻で全てが崩壊してしまう。
2011-04-25 08:28:316.しかし「心」が全てなのだと言い切ることは、現実の格差や差別を隠蔽することになる。いま必要なのは、多重に張りめぐらされた救いのネットワークであり、ある側面が破綻しても、それを他の「救い」が支えるような、幾重にも重なり合い、補い合うような、救いの網の目なのである。
2011-04-25 08:28:498.実際、この震災直後から、多くの宗教教団が救援活動に入っている。ふだんから災害対策チームを持っている教団も多く、それがここでも生きている。さらに今回の震災で注目すべきは、これまで動きが鈍かった在来仏教に新しい動きが見られることである。
2011-04-25 08:30:419.仏教教団の本山組織は相変わらずのお役所的体質で機能していないところも多いが、これまで自殺、ホームレス、ハンセン病、海外援助等の問題に関わってきた、社会的意識の強い僧侶たちのグループが、そこでの経験を生かして震災の支援に取り組んでいるのが目立つ。
2011-04-25 08:31:0010. そこであらためて気づくのは、寺院のネットワークの潜在的可能性である。全国に7万6千と、コンビニの2倍近く、公民館の4倍もある寺が、救いの網の目となれば、明らかにこの社会にもうひとつの厚みある支えをもたらすだろう。
2011-04-25 08:31:3811. 遠方からの僧侶も同じ宗派の修行仲間などをたどって、被災地の寺に入ることができる。また被災地の寺が一時避難所となったり、被災を免れた寺が疎開の場所を提供したりと、機能すれば寺は実に「使える」場所なのである。
2011-04-25 08:31:5712. 日本仏教は、「ありがたい話」はするが、実際には何の行動もしないというイメージを持たれてきた。しかしこの困窮の中で、寒さをしのぐ物資を届け、炊き出しをし、といった行動もまた宗教である。仏は言葉の中にあるのではなく、まさに救いの行動の中にある。
2011-04-25 08:32:2213.寺や教会の大切さをいまいちど認識したい。それは非常時には支援の網の目となり、またふだんからそこに集う仲間達の存在が苦しみに直面した中で大きな力となる。そしてもちろん、すべてが失われ、極限の苦悩に瀕しても、神や仏とともに生き抜いていける信仰の力は大きなセーフティーネットとなる
2011-04-25 08:33:1214. 目に見える救い、助け合う人の絆、目には見えないが信ずることの中にある救い、それらが多重に張りめぐらされた信頼社会の中に「救いの力」はある。
2011-04-25 08:33:3015. 私は震災直後に身の回りで起こったスーパーでの「買い占め」の光景を思い出す。何も信頼できるものがない、隣人は決して助けてくれないと思ったとき、私たちはわれ先に買い占め、溜め込むしかない。それはとてつもなく寂しい風景であった。
2011-04-25 08:33:5516. その風景を変えていかなければならない。私たちのためにも、そして私たちの子どもたちのためにも。そのとき、私はダライ・ラマ14世の言葉を思い出す。
2011-04-25 08:34:4217. 「理不尽な不正義や差別があっても、仏教者は怒ってはいけないのですか?」という私の問いに、ダライ・ラマは「怒りには二つの種類、悪意からの怒りと慈悲からの怒りがあります。そして慈悲から生じる怒り、何とか社会の不正を正していきたいという怒りは持つべき有益な怒りなのです」と答えた
2011-04-25 08:35:1818. 人に怒りをぶつけるのではなく、その憤りを問題の原因の探求へ、より良き未来の創造への原動力とする。人には限りなく優しく、しかし人を追いつめるシステムには厳しく。その毅然とした態度こそがいま必要なのではないか。私たちはまさに歴史の分岐点に立っているように思えるのである。
2011-04-25 08:35:42