動画『D-デイ』を訳してみた。1944年6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を開始した日です。イギリス人歴史家が語る、5分でわかるD-デイ。

『Sand and Steel: A New History of D-Day』の著者である、ピーター・キャディック=アダムズが語ります。
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動画『D-デイ』を訳してみた。1944年6月6日、連合軍がノルマンディー上陸作戦を開始した日です。イギリス人の歴史家、ピーター・キャディック=アダムズが語る、5 分でわかる D-デイ。 youtube.com/watch?v=pHsAmO… pic.twitter.com/2Y3ls70k13

2019-07-16 20:17:19
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20世紀は36,525日あったが、その中で1944年6月6日ほど重要な日はない。D-デイ。ナチスが占領するノルマンディーへの侵攻を連合軍が開始した日だ。第二次世界大戦を終わらせたわけではないが、この日がなければ、ナチスという戦争装置を倒すことはできなかっただろう。 pic.twitter.com/wdYJpkslEM

2019-07-16 20:17:45
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もちろん、私たちは正義が勝ったのを知っている。米国、英国、そしてその同盟国だ。しかし、1944年の段階では、成功が約束されたわけではなかった。自信もあったが、それと同じくらい不安もあった。ウィンストン・チャーチルのシニア・アドバイザーだったブルック陸軍元帥は日記にこう書いている。 pic.twitter.com/su4XH2l1vW

2019-07-16 20:18:14
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「この作戦全体について大きな不安を感じている。この戦争で最も恐ろしい惨事になっても驚かない」 ブルックの懸念には合理的な理由があった。 pic.twitter.com/IfzInwNZJh

2019-07-16 20:18:45
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まず、何万人もの兵士と何百万トンもの物資を、世界でも屈指の荒れる水域であるイギリス海峡を越えて、160kmも運ぶ必要がある。そして、これを秘密裏に行う必要があった。連合軍がいつ、どこに上陸するかがわかれば、ドイツは兵力を集結して北フランスの浜辺をキリング・フィールドに変えただろう。 pic.twitter.com/d3zhCHBLeN

2019-07-16 20:19:08
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これを避けるため、連合軍はありとあらゆる予防措置を講じた。ドイツが侵攻地点に部隊を迅速に送ることを防ぐため、空軍は橋、道路、鉄道を破壊した。攻撃が始まることは明らかだった。重要なことは、ドイツに的を絞らせないことだ。 pic.twitter.com/irZfJkH5AK

2019-07-16 20:20:33
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上陸地点がカレー近くの浜だということを匂わせる偽の会話が無線で交わされた。英国南東部に部隊が集結していると、二重スパイが偽の情報を流した。ドーバー近辺で軍が海峡を渡ろうとしているという嘘をドイツの偵察機やスパイに信じ込ませるため、映画の大道具係は張りぼての戦車/飛行機/船を作った。 pic.twitter.com/TR8oWZGHtZ

2019-07-16 20:21:33
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ドイツはこれらすべてを真に受けた。しかし、連合軍の敵はナチスだけではなかった。母なる自然も大きな脅威だった。23,000人の落下傘兵とグライダーで移動する歩兵がノルマンディーに降下して戦うには、穏やかな風が必要だ。12,000機の連合軍の航空機には晴れた空が必要だった。 pic.twitter.com/3ZwlwnR39z

2019-07-16 20:21:58
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6,000隻の侵攻艦隊には静かな海が必要だった。ナチスが仕掛けた障害物や機雷を発見するには、干潮の時間帯を選ぶ必要がある。激しい風雨が海峡を襲い、連合軍最高司令官のドワイト・アイゼンハワー元帥は、6月5日に予定していた侵攻を24時間延期した。大きな遅れではないと思われるかもしれない。 pic.twitter.com/zRWauavmwK

2019-07-16 20:22:22
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しかし、それは違う。すべての兵は集結し、出陣の準備は整っていた。計画や策略はいつ見破られてもおかしくない。新しい予報が入った。天候が変わる。侵攻のチャンスは12時間だけだ。 アイゼンハワーは命令を下した。決行だ。史上最大の侵攻艦隊が、130,000人を超える若い兵士を乗せて船出した。 pic.twitter.com/QcRJkEqjSN

2019-07-16 20:22:53
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ここで、戦いに参加した兵士について触れよう。米兵の平均年齢は21歳。そのほとんどは戦闘を見たこともなく、故郷の町から80km以上離れたことすらなかった。彼らを乗せた船がフランスの海岸線に向かっている頃、アイゼンハワーは作戦が破滅的な結果に終わったときに備えて報道陣向け原稿を書いていた。 pic.twitter.com/2eMhUDmVBX

2019-07-16 20:23:31
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D-デイはいちかばちかの戦いだった。新たな侵攻戦略を作り上げるには、少なくとも何か月もかかっただろう。 初期の戦況報告はまったく芳しいものではなかった。塹壕、大砲、マシンガンがハチの巣のように張り巡らされた崖を見上げるオマハ・ビーチでは、アメリカ軍は甚大な損害を被った。 pic.twitter.com/Op8sMGXJxe

2019-07-16 20:24:01
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「あの朝、私はおそらく数百人を殺した」と掩体壕の中にいたドイツ人兵士、ハイン・ゼーフェローは回想する。荒い波も被害を甚大にした要因の1つだ。米軍第116歩兵部隊に属し、後に医師となったハロルド・バウムガーテンはこう言う。 pic.twitter.com/48wWaQtp1i

2019-07-16 20:24:54
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「仲間の何人かは濡れた戦闘服と重い装備のせいで水中に沈んだ。どうしようもなかった。彼らは溺れてしまった」。断崖を登ろうとしたレンジャー部隊も激しい砲火を浴び、多大な損害を出した。しかし、正午頃には、米国海軍の支援もあり、物資や弾薬の不足したドイツを劣勢に追い込むことに成功した。 pic.twitter.com/7vmLOtwbOX

2019-07-16 20:25:29
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何百台もの戦車を含むナチスの援軍があれば、戦況が一変する可能性はあった。しかし、それは午後になるまでノルマンディーへの進軍を命じられなかった。ドイツが効果的な反撃を仕掛ける前に、5つの上陸海岸のすべてが連合軍の手に落ちた。 pic.twitter.com/iv2g0Z5t6y

2019-07-16 20:25:55
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チャーチルは、D-デイに20,000人が戦死すると予測していた。幸運なことに、多くの犠牲者を出したとはいえ、実際の死者の数はこれよりずっと少なかった。この日、上陸を試みた連合国の兵士は156,000人で、死傷者の数は10,000人。そのうち戦死者は5,000人だった。 無駄になった命は1つもない。 pic.twitter.com/t5VBZOb41g

2019-07-16 20:26:23
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彼らの犠牲により、ナチスドイツとホロコーストに終止符が打たれた。激しい戦闘は後1年続く。だが、D-デイ、1944年6月6日は、ナチスの虐政を欧州や世界から永遠に消し去るための重要な一歩となった。 『Sand and Steel: A New History of D-Day』の著者、ピーター・キャディック=アダムズでした。(了) pic.twitter.com/GNcTyIIzBc

2019-07-16 20:27:01
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