有鹿のお話2(有鹿の池~慶雄と霊石~水引祭中興)

2019年8月30日~有鹿神社宮司様の連続ツイートまとめ2。
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有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

有鹿姫の伝説とは異なるが、アルカヒメノ神に関係するのは、神体石の出現した「有鹿の池の伝承」です。この地を奉納した家の家伝によると、この神体石は上流より流れて来たのでこの地に祀伝いたが、やがて有鹿神社のご神体となったと記されています。これは「相模川に流される」ことに意味があります。

2019-08-30 06:40:15
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

「相模川の上流から流れて来た神体石」という伝承に基づいて、「大蛇となって流れて来た」のは、悲恋の女性として脚色して、有鹿姫の伝説が語られるようになったと考えられます。 さて、大蛇は相模川を表します。相模川を流れて来たのは、原因があります。相模川が荒れて氾濫したことです。

2019-08-30 07:05:00
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

鳩川流域に沿って展開された農耕地帯は、古くは、地元の豪族や国司勢力、その後、これらが衰退した後、海老名氏という武士勢力によって一元的に支配されていた。その結果、大宝律令の下流より水を使うという慣習が守られてきました。ところが、海老名氏の滅亡によって、鳩川の用水事情は変わりました。

2019-08-30 07:16:36
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

鳩川の下流の海老名と上流の座間との間で水争いが起きるのは、海老名氏の滅亡の後です。室町末期から江戸時代にかけて、海老名耕地を支配する強力な政治勢力がないので、上流の農民も旱魃によって荒れた水田に水を引き入れたいのは当然のことです。水の分配に陰りがあります。我田引水ですね。

2019-08-30 07:28:52
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

有鹿神社は、室町の二度の戦乱によって長らく疲弊していたが、学問に優れかつ神仏を信仰する別当の慶雄が有鹿神社の復興を誓った。この慶雄の夢枕に有鹿明神が女神の姿で現れ、有鹿の池から神体石をを探し出し、勝坂の有鹿の泉の洞窟に納め、約二ヶ月後に迎え来て欲しい旨を述べました。

2019-08-30 07:56:03
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

夢告に従って、慶雄は、翌朝、「有鹿の池」から神体石を見つけ出しました。今では枯れ池となっていますので、想像できないかもしれません。相模川の水位が高かった頃は水があったそうです。この神体石を「三王三柱神社」の傍にある「有鹿の井戸」の水で洗ったといいます。有鹿の化粧井戸ともいいます。

2019-08-30 08:03:34
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

有鹿の井戸は、地形的に見ると、この地で鳩川用水が河原口と中新田の水田に分かれるところにあたります。このところこは、袋状になっていたので、「有鹿袋」ともよばれていました。このような分水地には、必ず神社が祀られています。それは、勝手に水の流れを変えないようにという意味です。

2019-08-30 08:09:42
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

慶雄は、この神体石を奉じて、水引祭の儀式を毎年続けて、明治末頃から一時中断はあったが、先代宮司の頃から復活して現在に至ります。神社の由緒書に従って、人々の穢れを祓い清めて、神様より明日への活力をいただくことに努めております。現代の水引祭の意味を改めて考えた結果です。

2019-08-30 08:51:42
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

有鹿神社の水引祭が行われるに至ったのは、室町末期の慶雄の働きによります。この丸石は、伝承によると、相模川の上流から「有鹿の池」に流れ着いたといわれます。これは、前述したように氾濫によって流れて来たわけです。でも、なぜ有鹿の池を守って来た家ではご神体とわかったのはなぜかでしょうか。

2019-08-30 09:08:19
有鹿神社【神奈川のへそ・子育厄除大社】 @mikagenomori

この丸石は、元からご神体だったのですね。神社は、人間生活の拡大に伴って、山里から次第に人里に近づいてきます。有鹿神社の創建の頃より、鳩川の上流にあたる勝坂の奥宮、そして、中流にあたる座間の中宮、最後に相模川の本流に流れる込む海老名の本宮という組織が出来上がっていたと考えられます。

2019-08-30 09:19:08