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764年9月11日、藤原恵美押勝による反乱の企てが発覚した。企てを知った孝謙上皇は従兄弟で恵美押勝と懇意だった淳仁天皇から鈴印(御璽と駅鈴)回収した。鈴印とは皇権の発動に必用なもので重要なものだった。 pic.twitter.com/vMDwdFlq0l
2019-05-23 04:12:41恵美押勝は高い政治的理念を実現させる為に政敵を排除し続けてきた。今回の恵美押勝による乱の企ても政敵となった孝謙上皇と道鏡の排斥を狙ったものだった。 pic.twitter.com/mQh5HAyKvi
2019-05-23 04:28:36吉備塚。若き頃に遣唐留学生だった学識を生かして政界で活躍した吉備真備の墓と伝わる古墳。この墓には狐や大蛇が住んでおり、触れると祟りがあるとされている。 pic.twitter.com/ZyM2KeXJ9G
2019-05-23 07:20:23吉備真備は「恵美押勝の乱」当時齢七十才でまだ存命していたが政界から既に身を引いていた。孝謙上皇は「恵美押勝の乱」の鎮圧に隠居していた吉備真備を大将に任じた。 pic.twitter.com/PJtGqfd9cm
2019-05-23 07:26:37吉備社。祭神は吉備真備公の神社。吉備真備は遣唐留学生として入唐した際、刺繍裁縫の業を持ちかえったとされている。その故事に因んで吉備社では針供養が行われている。 pic.twitter.com/S5okQsMs7Q
2019-05-23 10:10:49瀬田の唐橋。壬申の乱の時は決戦の舞台となった場所である。吉備真備の軍勢は近江国府に入ろうとしていた恵美押勝の軍勢を防ぐ為に先手を打って瀬田橋を焼いた。 pic.twitter.com/JZdztuZYtd
2019-05-23 12:49:10近江国庁跡。瀬田川の東側にある近江国府跡。かつて恵美押勝が藤原仲麻呂と名乗っていた時代に国守を務めていた。恵美押勝の地盤の一つであった場所であることは間違いない。 pic.twitter.com/MhlWB3WKpV
2019-05-23 13:05:06瀬田橋を吉備真備によって焼かれた恵美押勝の軍勢は瀬田川を渡ることができず近江国府に入ることができなかった。東に向かうことを諦めた恵美押勝の軍勢は琵琶湖沿いに北に向かって進軍を始めた。 pic.twitter.com/3BMJVVrr0Z
2019-05-23 13:07:48愛発。古代に愛発関と呼ばれた関所があった地区。敦賀と北近江を結ぶこの関所は現在何処にあったのかは定かではないが愛発地区に存在していたことは間違いない。 pic.twitter.com/gq5sKYnAI3
2019-05-23 20:45:28近江国府に入ることに失敗した恵美押勝は反乱に同調した塩焼王を今上天皇として擁立しながら「愛発関」を目指した。目的地は自身の子供である藤原辛加知が赴任している越前国であった。 pic.twitter.com/aSAkGbNdi8
2019-05-23 20:57:12藤原辛加知は反乱を知る前に既に吉備真備の刺客によって殺されていた。愛発関は既に物部広成が封鎖していた。恵美押勝の先発隊は愛発関で物部広成によって撃退された。 pic.twitter.com/NSVL6ztucF
2019-05-23 21:11:10三尾城。「壬申の乱」の時に戦いの舞台となった場所のひとつである。愛発関を突破できないまま討伐軍に追いつかれた恵美押勝らは三尾城に籠城した。 pic.twitter.com/YNJgPVwUf3
2019-05-24 05:44:13三尾城は討伐将軍の藤原蔵下麻呂によって落城した。敗北した恵美押勝らは琵琶湖を船で横断して逃亡しようとした。「萩の浜」から見えるところに逃亡しようとした恵美押勝の船が浮かんでいたのだろうか。 pic.twitter.com/lkajLVUVtq
2019-05-24 05:59:09落城した三尾城から妻子三、四人を連れて船で逃れようとした恵美押勝は琵琶湖上で坂上石楯という兵士に追い付かれた。「恵美押勝の乱」は琵琶湖上で終結した。 pic.twitter.com/SMfEzYHAPf
2019-05-24 06:08:37乙女ヶ池。坂上石楯によって捕らえられた藤原恵美押勝一族郎党三十四人が処刑された場所である。かつては「勝野の鬼江」という呼び名だったと推定されている。 pic.twitter.com/m2Idfxuq76
2019-05-24 06:22:34恵美押勝はかつて政敵だった橘奈良麻呂が起こした乱について「狂行」だと自らの歌で詠んだが、自らも「狂行」を起こすこととなった。恵美押勝の乱は僅か一週間で終結した。 pic.twitter.com/zXlAScfDmK
2019-05-24 06:32:41多賀城碑。多賀城跡にある奈良時代に作られた碑石。この碑石の後半には藤原恵美押勝の子供の一人、藤原恵美朝狩によって多賀城が修造されたことを記している。 pic.twitter.com/FYjytGri05
2019-05-24 06:42:30多賀城を修造した恵美朝狩も「恵美押勝の乱」に組していた。「乙女ヶ池」で処刑された恵美押勝一族郎党34人の中に恵美朝狩も含まれていた。 pic.twitter.com/0i6S1BxDSZ
2019-05-24 06:46:49王塚。高島にある巨大な円墳。この古墳には「恵美押勝の乱」に同調して処刑された天武天皇の孫である塩焼王の墳墓であるという伝承を持つ。 pic.twitter.com/vf0KWJPIjE
2019-05-24 06:56:22「王塚」は塩焼王が殺されるよりはるか昔から作られていた。塩焼王が王塚に葬られたかどうかは定かではないが、この伝承の存在は地元の住民が塩焼王に同情していた名残なのだろうか。 pic.twitter.com/vQ5Kl5F7hW
2019-05-24 07:21:42敗死した恵美押勝と懇意だった淳仁天皇は乱には参加しなかったが孝謙上皇によって天皇の地位を剥奪された。孝謙上皇は重祚して称徳天皇となった。 pic.twitter.com/4WBMqau3Rt
2019-05-24 11:38:42船繋ぎ石。和気清麻呂が勅使として宇佐神宮を訪れた時に舟を繋いだとされる石である。和気清麻呂の宇佐訪問は藤原仲麻呂の滅亡から五年後の769年の事である。 pic.twitter.com/WBA8p3qncR
2019-05-25 21:44:30柁鼻神社。上古の頃に椎根津彦の先導を受けた神武天皇は宇佐にある柁鼻という地に上陸したという。勅使和気清麻呂は神武天皇と同じ場所に上陸した。 pic.twitter.com/Q074mhB80C
2019-05-25 21:56:13宇佐神宮。日本全国にある八幡社の総本宮である。欽明天皇の頃に応神天皇の御神霊が「八幡大神」として現出したことを由緒としている。 pic.twitter.com/VnJlfoG9lM
2019-05-25 22:12:18