フォイエルバッハテーゼ

意味の分かる言葉でまとめてみたかったです
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まだちぃ。 @madarasensei

これまでの全ての唯物論(フォイエルバッハ込)の主な欠陥は、〔認識の〕対象や現実や感性を単に客体として傍観者的にしか捉えておらず、生き生きとした活動(実践)として主体的に捉えてないことである。  ゆえに能動面は、唯物論と対立した観念論によって、抽象的(一面的)にだが展開された。

2019-10-23 14:03:11
まだちぃ。 @madarasensei

抽象的(一面的)というのは、観念論は生き生きとした現実の活動を、まさに生き生きとした現実的な活動としては知らないからである。  フォイエルバッハは、人間の脳内に映った客体とは区別された現実の客体を求めるが、しかし、人間の活動そのものを客体(対象)として捉えようとはしない。

2019-10-23 14:07:11
まだちぃ。 @madarasensei

だから、『キリスト教の本質』の中でただ傍観者的態度だけを真に人間的と見なしたのだ。  他方、それに対して、実践はただ不潔で、ユダヤ人的な現象としてのみ捉えられ固定される。ゆえに、彼は「革命的」な活動、「実践的・批判的」な活動の意義を理解しない。(フォイエルバッハテーゼ1の意訳)

2019-10-23 14:09:51
まだちぃ。 @madarasensei

人間の思考が正しいかどうかは、観念上ではなく実践上の問題である。実践でこそ自分の思考の正しさ、すなわち〔そのアイデアが〕現実に耐えうるか否かを証明しなくてはならない。実践から切り離された思考が現実的かどうかなど神学論争にすぎない。(フォイエルバッハテーゼ2の意訳)

2019-10-23 10:36:43
まだちぃ。 @madarasensei

環境と教育についての従来の唯物論は、環境が人間によって変えられ、教育者自身教育されねばならぬ面を見落としている。ゆえに社会を二分し、一方を社会を越えたものとしてしまう。環境の変革と人間の自己変革とは、変革する実践と捉えてこそ統一的に理解される。(フォイエルバッハテーゼ3の意訳)

2019-10-23 11:43:36
まだちぃ。 @madarasensei

フォイエルバッハは宗教の自己疎外(〔社会の〕聖と俗への分裂)すなわち世界の二重化という事実から出発する。  彼の仕事は、宗教をその世俗的基礎へと解消することだが、彼がこの仕事を終えた後、なおやるべき重要な仕事が残っているのを忘れている。

2019-10-23 14:35:07
まだちぃ。 @madarasensei

現世的基礎が自分自身から浮き上がり、雲の上に一つの独立した宗教の国として作り上げられるという事実は、まさしくこの基礎である現実そのものが自己分裂状態にあり、自己矛盾に陥っていることを意味する。

2019-10-23 14:36:47
まだちぃ。 @madarasensei

ゆえに、例えば、天上の秘密が実は地上の問題にすぎないことが暴かれた以上、今度は地上の問題そのものが理論的に批判され、実践的に変革されねばならない(はずなのであるがフォイエルバッハはそのことを見落としている)。(フォイエルバッハテーゼ4の意訳)

2019-10-23 14:44:03
まだちぃ。 @madarasensei

フォイエルバッハは抽象的(一面的)な思考に満足せず、感性で直接、対象を捉えようとする。しかし、彼は感性を実践的な、人間的・感性的な活動(生き生きとした活動)として捉えない。(フォイエルバッハテーゼ5の意訳)

2019-10-23 15:30:25
まだちぃ。 @madarasensei

フォイエルバッハは宗教の問題は結局は人間の問題であるというふうに解消するが、人間の本質というのは個々人に内在する抽象物ではなく、現実にあっては社会的な諸々の関係の総体なのである。この現実のあり方を批判しないフォイエルバッハは次のようになる。

2019-10-23 12:36:35
まだちぃ。 @madarasensei

1 歴史面を切り捨て、宗教心情をそれのみで固定し、抽象的な、孤立した人間の個体を前提にしてしまう。 2 ゆえに彼は人間の本質を、ただ「類」という一般的な概念として、内なる、無言の、多数の個人を自然に結合したにすぎない普遍性としてのみ捉える。(フォイエルバッハテーゼ6の意訳)

2019-10-23 12:44:33
まだちぃ。 @madarasensei

それゆえフォイエルバッハは、「宗教の心情」そのものが社会的に生み出されたものであること、また、彼が分析する抽象的な個人がある特定の社会形態に属することを見ようとしない。(フォイエルバッハテーゼ7の意訳)

2019-10-23 12:48:37
まだちぃ。 @madarasensei

全ての社会的な生活は本質的に実践的なのである。思考を神秘主義へとミスリードするあらゆる神秘は、人間の実践およびその実践を理解することで合理的に解決されるのである。(フォイエルバッハテーゼ8の意訳)

2019-10-23 15:38:12
まだちぃ。 @madarasensei

傍観者的な唯物論(すなわち感性を実践的活動として捉えない唯物論)が行きつく果ては、「ブルジョア社会(市民社会)」および「個々人」を傍観することである。(フォイエルバッハテーゼ9の意訳)

2019-10-23 15:49:28
まだちぃ。 @madarasensei

古い唯物論の立場はブルジョア社会(市民社会)であり、新しい唯物論の立場は人間的な社会、あるいは社会的な人間である。(フォイエルバッハテーゼ10)

2019-10-23 16:05:50
まだちぃ。 @madarasensei

哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変えることである。(フォイエルバッハテーゼ11)

2019-10-23 16:18:06