ハーメルンの笛吹き男 阿部謹也

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GMBO2008 @GMBO2008

12、13世紀はヨーロッパのどこにおいても都市の擡頭期であり、市民の活力は溢れ、生産力は増大し、いわば「開かれた世界」の相貌を呈していた。しかし13世紀の末になると領邦国家の形成とあいまって、こうした庶民の活力に上から「一つの型」が定められてゆく。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-10-14 18:38:41
GMBO2008 @GMBO2008

私たちは法制とか社会制度の整備、さらに市壁の立派さとか建物が堅固になったという、誰の目にも容易に見える事実に惑わされてはならない。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-10-14 18:38:44
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総じて中世は子供たちにとって大変厳しい時代であった。絵画や版画にみられる子供たちのまなざしや表情はそのことを物語っていないだろうか。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-02 23:01:42
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大人と同じ厳しい条件のもとにおかれた子供たちは、大人が故郷を捨てて東ドイツへ赴いたり、都市へ逃亡しなければならなくなったり、飢えや貧困のためにゆとりを失うほどの生活の厳しさに喘いでいる時には、(続く) 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-02 23:01:43
GMBO2008 @GMBO2008

その苦しみは小さな頭と身体にはもはや耐えがたいまでに高まり、「忘我の世界」に踊り出さなければならなかったことだろう。それには僅かのきっかけさえあれば十分であった。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-02 23:01:44
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キリスト教会は、繰り返しこのキリスト教以前のゲルマン民族の伝統的行事をキリスト教化しようと努力してきた。それにもかかわらず「焚木」に火がつけられ、高く燃えあがる時、人々の魂の奥底に眠る始原的感情が噴出して来るのをとどめることは出来なかった。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-03 21:26:22
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人々は踊り狂い、町中を練り歩いた。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-03 21:26:48
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そして祭りの本質的形態が行列・練り歩きであったから、それは一面で支配層に対する大きな示威運動ともなりえた。だからプロセッションの主導権をめぐる暗黙の争いは、教会と庶民の間で絶えまなくつづけられていた。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-03 21:38:36
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オルギー的乱舞と陶酔のうちに、爆発的行進へと絶えず発展してゆく可能性を秘めた庶民の祭りに対抗し、教会は舞踏を禁止し、いわゆる昇天祭や聖体祝日の華麗なけばけばしい威圧的な行列を対置しようとする。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-03 21:38:38
GMBO2008 @GMBO2008

「華麗なけばけばしい威圧的な行列」の現代における典型が軍事パレードなのだろう

2019-11-03 21:38:39
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親自身が飢えていた時代に、子供を餓死させた親はその傷を終生忘れることはないだろう。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-03 21:54:35
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親たち自身が無自覚の底において、この世の苦しみから逃れたいという衝動にかられながらも、辛うじて毎日を送らなければならなかった時に、たとえ事故にもせよ多数の子供たちをあの世へ送らなければならなかったとしたらどうだろう。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-03 21:54:38
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その痛みは時代を超えて語り伝えられてゆくに違いない。後世の人々はそれぞれのおかれていた時代の社会的・心的境位のなかでこの伝説を受けとめ、その内面からの要請に応じて、この伝説を変容させていった。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-03 21:54:38
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そしてこの伝説の変容過程において、最も大きな役割を演ずることになるのが遍歴芸人としての〈 笛吹き男〉のイメージなのである。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-03 21:54:39
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メンケベルクが紹介しているエピソードによると、13世紀前半にイギリスのオックスフォードの森で二人のフランシスコ会修道士がはげしい雨のなかで道に迷ったあげく、疲れ果ててベネディクト会修道院にたどりつき、なかへ入れて休ませて欲しいと門番に頼んだ。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-08 23:23:05
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衣服が粗末で汚れていたために門番は二人を遍歴芸人と見間違え、院長にそう報告した。喜んだ院長ら修道士が皆集まっているところへ案内された二人の修道士は、芸人でないことが解ると、足蹴にされ拳骨の雨をあびせられたのち、直ちに追い出されてしまったという。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-08 23:23:07
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飢えはいつの時代にも人間をギリギリの状況にまで追い込んでしまう。13世紀を通じて中部ヨーロッパで人肉食が行われたことは確かである。確実と思える記録だけでも793、868、869、896、1005、1032年にドイツ、フランスに、1085年にはイタリアで報告されている。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-08 23:36:35
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1233年と1315年にリヴォニア、1241〜42年にハンガリー、1277年にシュタイエルマルクとケルンテン、1280〜82年にボヘミア、1317年にポーランドとシュレージエンにも報告がある。これらのなかには死人の肉を市場で売ったという例も含まれている。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-08 23:36:36
GMBO2008 @GMBO2008

これらの素朴な修道士の叙述をみると、飢えた群衆はかなりの距離を食物を求めてうろつきまわったことが解る。1280〜82年のボヘミアの大飢饉の時には、飢えた難民はドイツのチューリンゲン、マイセンその他の地方にまで辿りついたという。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-08 23:51:46
GMBO2008 @GMBO2008

また同じ頃に難民はポーランドのクラクフから、ロシアやハンガリーまでさまよい出ているし、1317年には西部ドイツから物乞いをしながら、一群がリューベックやバルト海沿岸まで辿りついている。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-08 23:51:47
GMBO2008 @GMBO2008

12世紀と13世紀前半のオランダにおける飢饉と疫病、洪水などが東ドイツへの移民を生んだひとつの原因であったとも考えられる。1145〜47年の第2回十字軍の直前にも飢饉が起こっているが、十字軍と飢饉の間には密接な関係があったことが容易によみとれるのである。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-08 23:51:47
GMBO2008 @GMBO2008

いうまでもなく伝説は庶民の間で語り伝えられていったものである。しかしひとたび知識階層に属する人間がそれを書きとめ、評釈を加えるようになると、そうした行為が庶民の口伝に影響を与えずにはおかない。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-09 00:03:32
GMBO2008 @GMBO2008

いわんや伝説の解釈が庶民の宗教的教化や精神的訓育の手段とされるようになると、本来の伝説はその姿をまったく変えて現れることにもなる。〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉もその例外ではなかった。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-09 00:03:33
GMBO2008 @GMBO2008

この伝説をめぐって教会や市当局、学者の間で激しい論議が繰り返され、その議論にまき込まれるとわれわれは伝説というものの本来の姿を見うしないかねない。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-09 00:03:34
GMBO2008 @GMBO2008

すでにみたようにハーメルンの町にはカトリックの律院があり、古くから大きな支配権を市民に及ぼしていた。いうまでもなく市の独立は律院からの独立でもあったのである。 「ハーメルンの笛吹き男」 阿部謹也

2019-11-13 00:01:55