赤坂憲雄さん講演「東北、はじまりの場所へ」

ayako osanai(@ayya_i10x)さんによる、2011年5月27日の赤坂憲雄氏の講演ログおよび参加者のツイート。東日本大震災復興支援「Arts Action 3331」参加企画。アキバタマビ21 被災遺児支援チャリティ展の関連トークイベント。多摩美術大学主催。
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ayako osanai @ayya_i10x

【再掲】東北学の提唱者で復興会議メンバーの民俗学者、赤坂憲雄さんのトーク 5月29日(日)17時から開催:アキバタマビ21 被災遺児支援チャリティ展 関連トークイベント「東北、はじまりの場所へ」入場無料 http://t.co/jhRGvI7

2011-05-29 12:48:05
ayako osanai @ayya_i10x

アキバタマビ21 被災遺児支援チャリティ展 関連トークイベント「東北、はじまりの場所へ」始まりました。現在、堀浩哉さんがチャリティ展について、震災についてお話されています。

2011-05-29 17:18:36
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:みなさんは今回の大震災をどのように受け止めているのかそれぞれの形であり方でこの震災に出会って受け止めてると思います。僕自身がどのように受け止めているのかということと、政府の復興会議のことについても少しはなせたら。

2011-05-29 17:21:03
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:ぼくは国分寺の丸井のビルにいました。あのとき非難マニュアルに沿って、建物の外に出されました。その時、人々は空を見たり、何か異様な雰囲気でした。どこか遠くでとんでもない事が始まっているかもしれない、という思いがしました。

2011-05-29 17:22:29
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:その2時間後、駅の改札にぶら下がっていたモニタで、その様子を見る事になった。あぁ、ほんとに起こってしまったんだ。私が歩いて回ってきた東北の風景が飲み込まれていく。それが僕に取っての震災の始まりだったのかもしれません。

2011-05-29 17:23:49
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:みなさんも映像を通して、見られたと思います。僕が歩いてきたあの街、この街が津波に飲み込まれていく、さらに福島の原発問題が起こり。しかし被災地の現場にいた方たちはあの映像を当時見ていなかった。かろうじてラジオだけでした。

2011-05-29 17:25:22
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:2週間くらい経ってから電気が通って、はじめて被災地の方たちはあの映像を見る事になった。でももう見たくないという方も多くいたと聞いています。メディアの話をすると、日本のメディアと海外のメディアでは違う映像が流されていました。海外のメディアはもっとどきつい映像でした。

2011-05-29 17:26:45
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:僕の友人で被災地に住むあるジャーナリストがいるが、阪神大震災や奥尻地震を取材してきた人ですが、自分が被災者となったとき、完全に言葉を失っていた。

2011-05-29 17:28:15
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:そして友人から、なぜ赤坂さんは沈黙しているんですか、と言われました。でも僕は沈黙を選んでいたのではなく、言葉を失っていた。でもそれを沈黙と言われるということがわかり、必死で言葉をと想い、読売新聞にエッセイを掲載してもらいました。

2011-05-29 17:29:44
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:たくさんの映像が流されました。そしてその東京のメディアが被災地に入って撮っている映像、その意味が僕自身が後を追うように歩き始めてみると、相対的にその映像が何を意味するのかを考えるようになった。

2011-05-29 17:30:40
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:その土地の風景、記憶というものを全く無視した東京のメディアのひとたち。刺激的な映像ばかりを撮りたがっていた。3.11以前のその時の記憶に触れているのか。そこが必要なのではと。

2011-05-29 17:32:15
ayako osanai @ayya_i10x

被災地にずっといると、心が麻痺したようにその風景にもなれてきてしまう。でも一度車を降りて歩いてみるとやはり違う。においがする、ヘドロ、魚の腐ったにおい、ほこり。足下を見下ろすと文庫本が落ちていた。この文庫本は誰がいつ読んでいたのだろう?と思うと、その瞬間にその記憶や映像が。

2011-05-29 17:34:25
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:現場にちょっとでも立つことによって見えてくる、聞こえてくる、におってくる、そういうものはあるはずで、いろんなことを考えながら歩いています。いくつか出会った被災者の言葉をお話したい。

2011-05-29 17:35:19
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:山形を拠点に東北を歩くということを20年続けてきた。東北を起点にして地域の多様性をかかえこんだ日本文化像を作りたいと思ってやってきた。東北は一つではなく多様であるととことん感じてきました。

2011-05-29 17:36:22
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:ほとんどの沿岸の村や街は壊滅的になっています。死者は物を語らない。生き残ったひとたちの語りでしか、あの震災をしることはできない。昨日一昨日は南三陸町に行っていたが、みなさんもご存知だと思いますが、役場のゆきさんという方が津波がくる瞬間までアナウンスしていた。

2011-05-29 17:37:54
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:たぶん今回の大震災で、顔と声と言葉を持った死者は彼女だけだろうと思います。役場は後か多々もなく、鉄骨だけになった庁舎。そこにチリ地震の時はここまで津波が来ましたという碑があったが、3階建ての庁舎をものみこんだ津波。

2011-05-29 17:39:42
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:風景としては瓦礫の海だが、歩いていくと、被災地の少しずつ違う風景にであうことになります。教え子の両親が東松島市というところで被災され、お話を聞いた。近所のおばあちゃんを車で送って助け、もう一人を助けようとしたとき、海外から来る車が津波がくるから逃げろと言われUターン

2011-05-29 17:43:27
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:しかしバックミラーに津波に巻き込まれた車が見てきて、道路も渋滞し、あわてて車を乗り捨てしたが、津波に飲み込まれた。でもそのお父さんは、タイヤにしがみついていて助かった。

2011-05-29 17:44:29
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:避難マニュアルに沿って近くの体育館へ行った。しかしそこも津波にが押し寄せ、上に階にあがれなかった方達が、子どもたちの目の前で、津波にさらわれてしまった。石巻の大川小学校の話もみなさんご存知だと思います。マニュアルに沿って逃げたにも関わらず助からなかった。

2011-05-29 17:48:34
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:もう判断ミスといってもどうしようもないと思います。それぞれが修羅場をくぐり抜けた。岩手には、津波点々子(注:漢字わからず)という言葉があって、それぞれがてんでバラバラに逃げるしかなかった。

2011-05-29 17:50:37
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:被災地の状況はそれぞれが全く異なる。東京のメディアでは放送されていないが、実は被災の村で、閉村したところがある。復興をあきらめて村を解散してしまったところ。僕の知る範囲でそういうところが4つある。

2011-05-29 17:51:43
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:20年前に東北を歩き始めたときは、まだ暗い影が残っていてその後の10年20年で、東北は豊かになったと感じていました。しかし3.11を経て、改めて辺境としての東北ということがそこに転がっている事に気づかされたきがします。

2011-05-29 17:52:57
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:東京に電気送っている、電気だけじゃないですが、危険と引き換えにして経済を回している東北。原発が立てられるまで塩田が産業だった相馬市など。なんだか、沖縄に似ているな、沖縄と米軍の関係に。と思った。

2011-05-29 17:54:24
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:原発の問題については、以前から、限界集落からさらに人がいなくなるのではと言われていた。それが、今回の震災で早まったのではないかと思います。先ほども話したように、全ての小さな集落が復旧復興することはありえないかもしれない。

2011-05-29 17:56:44
ayako osanai @ayya_i10x

赤坂憲雄さん:今回被災された東北の方たちを、おにぎり一つで耐え忍ぶという光景が放送され、世界が絶賛してるという話がでました。これは確かに東北のひとたちのある種の振る舞いとしてあり得るだろうと思いますが、賞賛の言葉があればあるほど東北のひとたちは身の狭くなる想いだったのでは。

2011-05-29 17:59:21