絵画に「無意識」と「自然」を取り入れるとは、どういうことか

現代画家、川田祐子が語る美術史的絵画論
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@kawadayuko

@pesu1028 さんの仰る「自己の内に秘めたる自然は、自己との対話によってしか開花させることは出来ない.....。」に触発されて、絵画における「無意識」と「自然」を取り入れることの意味について考えてみたいと存じます。

2010-04-15 15:42:41
@kawadayuko

絵画と自然との対話は、おそらく美術史において自覚的に始まったのは、印象派の時代から。外光を求めて、画家が室内から外に出て行ったのです。それまでは、せいぜい窓から見た景色を写すという意識です。ですから、多くのキリスト教絵画が劇場を彷彿させる、舞台装置としての自然を感じさせるのです。

2010-04-15 15:45:08
@kawadayuko

このように人間と自然との分離が、自ずと絵画に露出されていることを知ることはとても重要です。

2010-04-15 15:47:23
@kawadayuko

なぜ、そこから画家が自ら自然の中に入って行くことができたのか。。。 それは、いくつかの理由が考えられますが、特にチューブに入った絵具が1840年に開発されたことが大きな役割を担っているのです。

2010-04-15 15:55:53
@kawadayuko

それまで油絵具は、画家あるいは工房の徒弟達が手作りで顔料を粉砕し、さまざまな秘法で油と調合して作っていたのです。これが、チューブに入れられて市販されるようになると、気軽にそれを外に持ち運べるようになりました。

2010-04-15 15:59:42
@kawadayuko

余談ですが、このチューブ絵具とピアノの開発とは、とても近しい関係にあるように思えてなりません。専門外ですが、無限の音の中から、ある音を取り出して集めたものがピアノならば、無限の色の中から、もっとも代表的な色をセレクトして販売されるようになったのが、チューブ絵具です。

2010-04-15 16:04:12
@kawadayuko

従って、印象派の画家たちの描く自然の中の人間の身体そのものに、自然の風光が色として落とされているのです。この表現、おわかりになるでしょうか?

2010-04-15 16:10:30
@kawadayuko

私たちは意識していませんが、常に身体に空や太陽の光を受け、木陰に入れば、その陰が身体に落ちる。緑の中の水辺に立てば、その水面にたゆたう反射光が顔を照らす。そのようにして人間が自然の中に存在することを、画家は描き出すのです。

2010-04-15 16:11:25
@kawadayuko

この印象派の絵画における世界観は、「自然は人間を取り囲むもの、人間は自然に抱かれている」とう眼差しです。

2010-04-15 16:15:18
@kawadayuko

しかしながら一方で、人間が自然に出掛けるような余裕が無くなって来ているからこそ、これらの絵画が求められた、あるいは生まれたと言っても過言ではありません。文明は、人間から自然を奪い、次第に自然を破壊していく。

2010-04-15 16:21:02
@kawadayuko

@pesu1028さんも仰るように、人間の自然回帰への思いは、ずっとこの印象派の時代から続いているように思えてなりません。

2010-04-15 16:23:22
@kawadayuko

しかしながら、私はこの印象派の世界の自然に対する眼差しは、やはりどこまでも、人間対自然を外側から観察した目であって、人間の内面への観察というものにはなっていない、と思われるのです。自然は人間の骨の髄まで浸透していないように思われるし、また人間の内面にはまだ目が向けられていない。

2010-04-15 16:29:55
@kawadayuko

これが絵画に与えたショックは大きいです!RT @hosakanorihisa: カメラの発明と同時期ね RT @kawadayuko: チューブに入れられて市販されるようになると、気軽にそれを外に持ち運べるようになりました

2010-04-15 16:32:44
@kawadayuko

さて、ここで絵画が人間の内面に向かわなければならなくなる、決定的な事件が起きます。それが@hosakanorihisaさんがご指摘のように、カメラの発明です。人間それを取り囲む自然を、カメラで用意に切り取ることができるようになります。(ご指摘グッドタイミング!)

2010-04-15 16:35:21
@kawadayuko

ここからカメラでは写し出し得ない、人間の内面に画家は注目するようになります。これがシュールレアリスムの登場です。これはまた同時に、心理学、精神分析学というような研究ともリンク致します。

2010-04-15 16:40:52
@kawadayuko

ダリの絵画に見られるような夢の表現がわかりやすい例。幻想性を醸し出すダブルイメージという表現方法や、題材とは別に偶然性をつくろうとした、マックス・エルンストに代表されるようなフロッタージュ、デカルコマニー、やコラージュ技法というようなオートマティズム(自動手記)生まれてきます。

2010-04-15 16:54:51
@kawadayuko

このオートマティズムがアメリカの抽象表現主義に舞い降りて、ジャクソン・ポロックに代表されるようなアクションペイントへと続いて行きます。

2010-04-15 16:57:59
@kawadayuko

アクションペインティングとは、何も人を驚かそうというようなパフォーマンスではなくて、画布を床に敷き、絵具やペンキをドリッピングすることで、偶然性を絵画に取り入れようという試みだったのです。

2010-04-15 17:03:05
@kawadayuko

私は、この絵画における偶然性の発見が、まさしく人間の内なる自然が露出した瞬間と言えると思うのです。

2010-04-15 17:09:30
@kawadayuko

影響という言葉は、非常に簡略した言い方なので、要注意ではあります。

2010-04-15 17:30:58
@kawadayuko

再び戻って、絵画における「自己の内に秘めたる自然」を取り出す方法は、まだまだありそうです。しかし、以上のようなモダンテクニックが浸透して行くと、そこから新しい方法を打ち立てるのが、なかなか難しいものです。最近見たリヒターでさえも、マーブリングというモダンテクニックを使っています。

2010-04-15 18:13:45
@kawadayuko

さて、私の制作における偶然性とはどのような方法でしょうか?(ようやく本題に入りました)私の場合は、習慣あるいは習癖と制作を結びつけることによって、無意識を誘導して行きます。

2010-04-15 18:17:59
@kawadayuko

私は、この10年、ほぼ毎日、朝から夜まで筆またはカッターを手に持ち、2年前までは6.5帖の狭い制作室に籠って、ただひたすらに画面と向き合っていました。2年前に今の場所に移り住んでからは、やっと12帖の広さで制作出来るようになったのですが、慣れるまでに2年かかりました。

2010-04-15 18:21:57
@kawadayuko

毎日ひたすらに繰り返される、スクラッチとハッチングという、線描を画面に集積して行く単純作業。このことは、ほぼ何も考えずにそうする生活です。

2010-04-15 18:28:34
@kawadayuko

そして身体が、「もう、そういう仕事しか受け付けません。それをしないとどうにかなってしまいます」というくらいのところまで来たのでした(少し危ない、ということで、ここへ来て、少し方向を転換するようにしています)。

2010-04-15 18:29:35