今日は祖母のものだった手紙類の箱が出てきた。さすがに、これは捨てるしかないだろうと思ったが、一通だけ封書の中身を見てみた。それが何と、僕が生まれた二日後に書かれた祖父からの手紙だった。 pic.twitter.com/xJHLiJpquI
2020-01-10 18:06:48「それから紀代子さん(私の母)は18、19日頃に安産されたと考えおりまして、19日に二人でお祝いを致しました。電報も電話もありませんから、ただただ勘でゆくよりほかありません」と書いてある。僕は1月19日に生まれた。勘は当たってたよ、じいちゃん。 pic.twitter.com/jnVePRQJgs
2020-01-10 18:12:29僕は父方の祖父(高橋康順)とは会ったことがない。僕と祖父を繋ぐものは何もなかった。それが初めて目の前に現れた。
2020-01-10 18:14:23手紙に「二人で」と書いてあるのは、同じく撫順の収容所に入っていた母方の祖父のことだ。二人は長年、同じ収容所がいたが、ずっと会うことはできなかった。だが、1955年に状況が変化し、帰国の見通しが出てきた。そして、二人で孫の誕生を祝うことができた。 pic.twitter.com/QRaMqOV7R3
2020-01-10 18:23:55祖母が持っていた当時の新聞の切り抜き。祖父の名前がある。 pic.twitter.com/LCH20Joffw
2020-01-10 18:28:54この新聞記事、僕が生まれた時点の僕の家族構成が細かく書いてあるが、よく読んだら、これまで知らないことがあった。祖父は昭和20年にシベリア抑留され、昭和25年頃に二、三度、手紙が届いたが、その後、昭和30年になるまでバッタリ、手紙の類はなかったのだ。 pic.twitter.com/BJZWii6GXr
2020-01-10 23:22:01昭和30年の7月になって、シベリアではなく、中国から手紙が届くようになった。祖母の手紙の箱に詰まっていた手紙は、それ以後、祖父が毎日のように書いた手紙だった。
2020-01-10 23:26:14史実では、昭和25年に祖父はシベリアから撫順の収容所に移されている。映画『ラスト・エンペラー』の冒頭の、溥儀がシベリアから乗せられてきた列車があるでしょ。あれに両祖父も乗っていたのだ(映画を観た時には知らなかった。祖父はシベリアで死んだと思っていたので)。
2020-01-10 23:31:56映画を観てから10年くらい過ぎて、祖父が撫順の収容所にいたことを知った。で、今日に至るまで、そこで死んだと思っていたのだが、それも違っていた。撫順から40キロの戦犯病院にいたと書いてある。両祖父とも病気になって、戦犯病院に移されていたのだな。
2020-01-10 23:35:22昭和30年に戦犯病院に移されて、家族との手紙のやりとりが許され、同年11月、毛沢東が6、700人の戦犯の解放を表明。手紙のやりとりで、昭和31年1月19日頃に初孫が生まれることも知った。希望に燃えただろう。でも、僕の名前までは知ることがなかったのかもしれない。
2020-01-10 23:48:46何だかおかしいね。サンレコ連載の「音楽と録音の歴史ものがたり」でこのところ電子音楽の話を書いていた。ヨーロッパの電子音楽は第二次大戦の凄惨な記憶と深く結びついている。シュトックハウゼンは戦争孤児だ。リゲティの父と弟はユダヤ人収容所で死んでいる。
2020-01-11 00:29:55でも、そんな「歴史ものがたり」を綴っているライターだというのに、僕は今日になるまで、自分の祖父がどこで死んだのか知らなかったのだ。
2020-01-11 00:30:23じいちゃん、なんて書いたのも今日が初めてだ。高橋康順は東大出身の高級官僚で、几帳面で厳格な人だったらしい、くらいのイメージしかなかった(帝大時代のノートはそれに合致する)。でも、よれよれの字で、勘でお祝いしたとか書いてある手紙、全然違うじゃん。
2020-01-11 01:00:26高橋健太郎 文章を書いたり、音楽を作ったり。レーベル&スタジオMemory Lab主宰。著書に『ヘッドフォン・ガール』(2015)『スタジオの音が聴こえる』(2014)、『ポップミュージックのゆくえ〜音楽の未来に蘇るもの』(2010)。
何と言う、家族の物語なのだろうか。泣いた。高橋康順氏は、1891年生で、武部力蔵氏は1983年生だ。お二人は共に、東京帝大法科卒で銀時計組にして、満州国内務官僚のエリートである。 twitter.com/kentarotakahas…
2020-01-10 19:43:04昔の人の手紙類は過去からの貴重なメッセージです。捨てちゃダメです。 twitter.com/kentarotakahas…
2020-01-10 18:53:48