まとめ:rmd公開読書「忙しい人のための『坂の上の雲』第1巻」@大阪

■使用テキスト 『坂の上の雲』第1巻 著者:司馬遼太郎 出版者:文藝春秋社 続きを読む
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@na_hi

四国は、伊予松山に三人の男がいた。 #sakakumo

2011-06-08 19:35:22
古石フズリナ @fusulina

na_hiさんが、公開読書という面白そうなことをしていらっしゃる!しかも本は坂の上の雲!これはみるしかないですね^0^* #sakakumo

2011-06-08 19:35:35
@na_hi

この古い城下町に生まれた秋山真之は、日露戦争が起こるにあたって、勝利は不可能に近いと言われたバルチック艦隊を滅ぼすに至る作戦を立て、それを実施した。 #sakakumo

2011-06-08 19:35:44
@na_hi

その兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を破るという奇跡を遂げた。 #sakakumo

2011-06-08 19:35:57
@na_hi

もう一人は、俳句、短歌といった日本の古い短詩形に新風を入れて、その中興の祖となった俳人・正岡子規である。 #sakakumo

2011-06-08 19:36:08
@na_hi

彼らは、明治という時代人の体質で、前をのみ見つめながら歩く。登っていく坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を登っていくであろう。 #sakakumo

2011-06-08 19:36:34
古石フズリナ @fusulina

「春や昔」懐かしい!そしてこの書き出し…。初めて坂の上の雲を読んだときを思い出します #sakakumo

2011-06-08 19:37:21
古石フズリナ @fusulina

完全に渡辺謙さんのナレーションで脳内再生されますw #sakakumo

2011-06-08 19:39:00
@na_hi

さて、主人公の一人である秋山信三郎好古は、1859年にこの松山で生まれました。出自はお従士の子。ちなみにお従士は足軽より一階級上ですが、上士とはいえない身分。1969年。信さんが10歳になった年の春、何もかもがひっくり返るような事態が起こる。明治維新です。 #sakakumo

2011-06-08 19:40:43
@na_hi

この当時の松山藩というのは、いわゆる佐幕でした。殿様は久松家といって、家祖は徳川家康の異父弟で、三百諸侯の中でも特別待遇を受けてきた藩です。さらには幕末、幕長戦争の折には瀬戸内海を挟んだ長州藩に攻め込んでいます。 #sakakumo

2011-06-08 19:43:35
ろく@白黒ハム😷 @rockmonsen

@na_hi お、始まってる。渡辺謙の語りが聞こえてくるさー(笑)

2011-06-08 19:44:09
@na_hi

明治維新で、幕府は官軍に敗れました。松山藩は、お隣の土佐藩の占領を受けることになりました。土佐は、官軍側です。「土佐の兵隊が町にくる!」ということで、藩全体が動揺しました。ちなみに、このときの土佐の軍勢はわずか200人足らず。 #sakakumo

2011-06-08 19:47:09
@na_hi

脳内で変換していただけるとありがたいでーすw RT @rockmonsen お、始まってる。渡辺謙の語りが聞こえてくるさー(笑)

2011-06-08 19:47:44
@na_hi

土佐が松山につきつけた要求は「降伏し15万両の償い金を出せ」。松山は結局これをのみ、一時は藩領を土佐が保護領としてあずかることに。城下の役所や寺に「土州下陣」という貼紙。信さんはのちにフランス滞在時に家族への手紙で「あれを思うと今日でも腹が立つ」と書いてます #sakakumo

2011-06-08 19:51:24
@na_hi

ちなみに、松山藩は先の幕長戦争でも負けてます。もともと土地柄もあってか戦闘心が薄く、負けて悔しがるよりも謡が流行したとのこと。「長州征伐マの字にケの字 猫に紙袋で、後に這う」戦争に参加した士族の子供までもがこれを喜んでうたってたらしいw #sakakumo

2011-06-08 19:54:06
@na_hi

さて、土佐藩の要求した賠償金のおかげで松山は経済問題を抱えることになります。藩財政から見れば15万両という金はほとんど支払い不可能な数字で、このために藩財政は傾き、藩士の生活は困窮をきわめることになります。特に、秋山家のようなお従士の家などは悲惨なことに  #sakakumo

2011-06-08 19:57:12
ろく@白黒ハム😷 @rockmonsen

真田ナイトしながら坂雲語るのはちょっと難しいかw 「さ」しか合ってないぞww #rekiBar #sakakumo

2011-06-08 19:58:27
@na_hi

土佐が進駐軍として滞在してるこの明治元年。また男の子が生まれます。すでに信さん含めて4人も子が、秋山家にはおりました。この養育だけでも大変で、こんなひどい時期なのに生まれてしまったわけですね。これが後の秋山真之です #sakakumo

2011-06-08 19:59:49
@na_hi

「いっそ、おろしてしまおうか?」と、父親である平五郎が、妻であるお貞にもらします。この当時、町人や百姓には間引きという習慣がありました。産婆さんが産湯を使ってるときに溺死させていたんです。でも、武家にはこの習慣がありません。なので「寺にやるか?」ということに #sakakumo

2011-06-08 20:01:54
@na_hi

そんなひどい話を10歳の信さんが聞いてて「あのな、そら、いけんぞな!」と両親の前に。伊予弁というのは日本で最も悠長な言葉とされているそうで、自分を指して「ウチ」という風に使います。関西でウチは、女の子が自分を指して使う言葉ですが、伊予では武家の子もウチ #sakakumo

2011-06-08 20:04:26
古石フズリナ @fusulina

長州征伐マの字にケの字 猫に紙袋で 後に這う♪

2011-06-08 20:04:46
@na_hi

「あのな、お父さん。赤ん坊をお寺にやってはいやぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるぞな」 #sakakumo

2011-06-08 20:05:38
@na_hi

この「お豆腐ほどのお金」という例えですが、藩札のことです。藩札を積み重ねて、豆腐ほどの厚さにしたいもんだ!と、伊予の大人はよく言ってたそうです。それをたまたま信さんは覚えてて、言ったらしいですね。 #sakakumo

2011-06-08 20:07:50
@na_hi

この時期、松山に小学校と中学校が設けらます。しかし信さんはどちらにも入っていません。ひとつは年齢が規定と照らすとどっちつかずだったこと。もうひとつは維新後の士族没落で家が困窮を極めていたせいです。「銭湯の風呂焚きをしていなはった」というのが松山に残る口碑です #sakakumo

2011-06-08 20:11:13
@na_hi

「士族が風呂屋になった」というだけで、町中の評判になったそうです。垢取りを武士がやるのか、と半分は悪評です。さらに信さんは最下層で重労働である風呂焚きです。容貌がイケメンだったこともあって、年頃の娘からはモテましたが、悲惨です。賃金は1日天保銭1枚orz #sakakumo

2011-06-08 20:15:41
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