身体の零度 零じゃなくても語る身体
高岡英夫さんは寡聞にしてまったく知らなかったんだけど、なによりご自身も実践されて効果あるようだし、ちらっと見たら細かく論じておられるようなのでたのしみ(´∀`*)ウフフ
まぁ、この辺はむしろ現代日本だとファッションを通じてということになるのでしょうけどね QT m_um_u: そういうのは「近代的選別」ともいえるかなぁとかちょっと思いますの。三浦雅士さんがいうところの近代的な身体技法およびそれを通じての身体加工(矯正)、結果としての「身体の零度」
2011-06-11 09:52:21その感覚まで達して、そこから自在に道具としての肉体を自身の身体イメージと重ねていくわけです。アストラルボディのような身体のイメージ。その2つが合わさり、重さを操作できるようになったら…
2011-06-11 09:50:20そういうのに対して設計者側からではない視点、感覚としての身体の零度はある。マーシャルアーツを研鑽してるひとたちはある段階まで行くとそれを感じる(>自分の体は重いなぁ>なんで体なんかあるんだろなぁ>体を道具として使えたらなぁ)
2011-06-11 09:49:08そういうのは「近代的選別」ともいえるかなぁとかちょっと思いますの。三浦雅士さんがいうところの近代的な身体技法およびそれを通じての身体加工(矯正)、結果としての「身体の零度」というのはそういう文脈。ツルッとしたマネキンモデルな身体です
2011-06-11 09:47:19O脚とかX脚、あるいは「3代前の祖母が後年太った」とかそういうの。それはバレエの元の発想のひとたちがあまたあるマネキンの中から理想のモデルを設定し、それによって彼らの理想を体現しようとしたから(たぶん
2011-06-11 09:45:52で、バレエの身体というのは「バレエ用の整ったまっすぐな身体(欧米人風の頭身および中肉中背な均整のとれた身体)」をまず基本としてるわけです。それをマネキンとしてモデル化した身体理論がクラシックバレエ。なので、そこから外れるおそれがある要素はできるだけ選別する
2011-06-11 09:44:37┐(´д`)┌ヤレヤレ >あらゆる芸術の基点に痛みがある 『考える身体』(三浦雅士) - 国語 ANNEX http://blog.goo.ne.jp/e/4416933d7b4250c6f4bacbe9ccffb58f
2011-06-10 07:29:40痛み、というか途上点として自分なりのなにかを設定し、その地点に賭けた感情と芸術的研鑽の重みで泣くことはあるだろうけど。それは「痛み」のためにやってるのとは違うと思うけどね。結果論とか、もしくは最初に痛みがあるからやるだけで
2011-06-10 07:31:23無痛文明論(未読)の文脈からすれば、身体や精神加工された近現代人があたまボケーっとなってるから「( ゚Д゚)<痛みみたいなのが必要なのでわ?」みたいな話はでてくるだろうけど。心の痛み、はクリティカルな話題とかね
2011-06-10 07:33:01痛み、というか「精神、身体の聲を喚び起こすためにクリティカルな表現を提示する」という意味では芸術的表現の目指す方向と範囲はあると思うけど、そのサブディレクトリとして「たまたま」ユーザーのひとりにとって「痛み」となることがあるかもなだけで、最初から痛みは志向しないよ
2011-06-10 07:36:49というか( ^ω^)・・・たぶん三浦さんが遣い手じゃないし、そこまでいかなくてもあまり身体修練したことないのでこういう見方になるのだろうけど。「( ゚Д゚)<本質など ない!」と同じく「身体の零度など近代(国家)の幻想!」とかゆってるんだけどそれとは別に身体の零度はある
2011-06-10 07:40:51身体芸術、マーシャルアーツに属するものはなによりもまずその零をめざしたり、結果的にそうなったりするわけだから。それは近代国家が軍隊-工場労働的に規律訓練して精神や身体を陶治していった過程とも似てるように想われがちだけど、後者は零の第一段階にすぎんよ
2011-06-10 07:42:52「零の第一段階、白紙状態で変なインプリントされる」のが問題なだけで、白紙状態自体があること(蓋然的にそう想われること)は否定出来ない。 それと、「白紙を創りだす」+「インプリントする」、を混同するのは身体使えない近代人の偏見だなと思う
2011-06-10 07:44:30