【食べること、その他のこと】福間健二 #k2fact247
ケンジ、なにかおいしいもの食べさせてくれよ。この世を去る少し前に父が言った。そんなこと言わない人だった。いつも胃の心配をしていた。えっ。胃の丈夫な息子のぼくは驚いた。お風呂に入れているとき、だった気がする。抱きあげた父の体はとても軽かった。(食べること、その他のこと1)#k2fact247
2020-01-30 09:20:27犬の吠える対岸を意識する。ためいきの理由になっても、新しい世紀。食べたい。でも、ほんのちょっとしか食べられない。やせても父のあそこはなかなか立派だと感心したあの日とセプテンバー9。どっちが先だったか。現実のうずまきを思いながら父を洗った。(食べること、その他のこと2)#k2fact247
2020-01-31 11:28:55お金を払ったときでもきみのためになにかしてくれた人には感謝する。教えてくれたのは詩人のロンだが、父も反対はしなかっただろう。週に一度の、彼との濃厚接触。どのくらいつづいたのか。入れ歯とか補聴器とかにいつも不満のあった人。海峡を渡らなかった。(食べること、その他のこと3)#k2fact247
2020-02-01 09:49:18父の補聴器、なぜかぼくの耳につけるとぴったりで、世界がふしぎな厚みをもって歌いだした。新世紀、これから国境とかあまり意味がなくなる。そんな音楽。よく磨いたドアノブのステンレスがきらめき、父は笑った。好きなヘルパーさんの名前をはっきり言った。(食べること、その他のこと4)#k2fact247
2020-02-02 10:44:48せっちゃん。ではなくて、ツチヤさん。道端の花を摘んで持ってきてくれた人。炊事や掃除あまり好きじゃないらしいけど、トーストは父の言うとおりの焼きかげん。父の好きなキンツバ、どこのがいいか知っていた。そうだった。静かな人。ときどきハミングした。(食べること、その他のこと5)#k2fact247
2020-02-03 10:15:21キンツバ以外の、父の好物。まだ胃が丈夫で大食いだった子ども時代に食べたもの。まず、栗。栗ごはん、栗きんとん。甘栗やマロングラッセも。それから、川魚。川魚ならなんでも。奥出雲の斐伊川の流れる町で育った。醤油屋さん。出てくるもの全部おいしい家。(食べること、その他のこと6)#k2fact247
2020-02-04 09:31:50下着の上に直接着た、ボタンの多いツチヤさんのカーディガン。ひとつひとつ違うそのボタンを見ながらぼくは言った。でも父は食べることに執着しない。「もっと苦悩を」の時代でもここ、あそこと食べたいもののために遠まわりして遅刻していたぼくのようには。(食べること、その他のこと7)#k2fact247
2020-02-05 09:57:13父の実家、中福醤油店。夏休みに行くのが楽しみだった。川で泳いだあとの、お茶口。おすしまで出ることがあった。そのころ、その家とは「絶縁状態」だったユキコ叔母さんに川原で会った。あんたのお父さんはね、食事にお米のごはんがないと機嫌わるかったよ。(食べること、その他のこと8)#k2fact247
2020-02-06 09:26:40そばのおいしい地方で育ってヌードルぎらい。大人になるとライスがあっても心配性。今夜眠れるか。安定剤切れない。麻雀、碁、人生。どんなゲームも負けまいとしたが、うるさい人ではなかった。いばりくさった冷淡な人ではなかった。不快な老人でもなかった。(食べること、その他のこと9)#k2fact247
2020-02-07 09:51:41栗ごはんとキンツバ。胃が痛い。社会党に投票してドラマに泣く。思い出した。兄妹で大粒の甘納豆の取りあいをした。甘納豆が好物のユキコ叔母さんは広島の原爆で夫を失い、娘を夫の家に奪われてからずっとひとり暮らし。ことし九十九歳。いまも葉書をくれる。(食べること、その他のこと10)#k2fact247
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