「現状の価値観と知っていること」が絶対的な答えである人は何故議論に加わろうとするんだろうか。そこからの逸脱を全て間違いとすると議論は現状確認にしかならないのに。著名人や学者が「当たり前のこと」から逸脱するのを叩く風潮下で社会はどのようにして変化するというのだろうか。
2011-06-05 18:08:49あと、傷ついた、とか、悲しいとか、そういった被害者の感情=論の間違いっていう意味不明な風潮も辞めるべき。傷ついた人がいること、結果傷ついたことは、それ自体が問題であっても論の是非には関わりの無いことだし、そもそも、「全ての人間に都合の良い」というユートピアが無条件に前提になってる
2011-06-05 18:11:47特定の人々の損失等が社会全体の圧倒的な効用を保証するとした場合、国家や社会としてどの様な選択をすべきか、というのは一概に決まった問題ではない。理由すらも含まれない「かわいそうであること」の様な不明瞭な損失によって論自体を棄却するのは明らかに間違い。
2011-06-05 18:16:27行為補填的発言、とか純粋思想的発言、とか、そういった風に発言自体の種類をもっと再定義、細分化して行くべきだと思う。思想の自由、と発言の自由、そこと発言責任とかが矛盾してるからこんなに面倒なんだよ。純粋思想発言は現実に対する単なる思想の表明であり、現実に対しての責任は無いみたいな。
2011-06-05 18:28:12今までは公使の分別が所法空間上でもなされていたから、単純思想としての発言は一般に公に対して責任を負う必要はなかったけれど、ITやソーryの発達によって、自分自身の(思想の)投影としての情報が電脳空間上に形成されたから、人は自分自身の在り方に対しても責任を負う必要性が出てきた。
2011-06-05 18:31:16これは既存の情報空間上の自身としての役割とは大きく異なる上に、その社会的な定義すらされていない。しかし、そこに対して単純に既存の物理空間上の法を適応させる事はそもそも暴論なのかもしれない。場としての意味もあり方も違うのだから新たな概念形態による定義付けが必要なのでは?
2011-06-05 18:33:26あと、今までは発言は何かしら「職」に結び付いた上で「公」に放たれていた場合が多く、故に職としての発言に社会的な責任が生まれてきていた気がする。その発言はその職としての社会的地位に依存し準拠するものだから。しかし。SNSにおける発言はそれとは異なり、個人としての発言である。
2011-06-05 18:46:20「職」としての責任をその人個人の本質的属性とみなしてよいのか。その人は常にその職としての責任を有した存在なのだろうか。このように社会性と個人をどの範囲まで同一視するかってのも考えなくては駄目だろう。これまでは、その人が関係する人ごとに個人の属性は変化してきたが、SNSを介する>
2011-06-05 18:49:16前承>場合、その対象は常に不特定多数の全ての関係性を含む。故に、その個人の全ての社会的属性に対して責任を負わなければならなくなるのだろう。特にこれまで社会的職務としての発言経験の無い市民にとっては新たな体験であり、それが炎上と退学、首等の問題に繋がってるように思う。
2011-06-05 18:51:36抑も、言説が個人の属性そのものを補填するという論説と、言説に対して人は責任を負わなければ成らないと言う論説を組み合わせると、人は自己存在の存り方に対して責任を負う必要が在る様になってしまう。それは、個人の人権の著しい侵害だろう。
2011-06-05 19:13:18