太平洋戦争前夜の日蘭石油交渉

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HIROKI HONJO @sdkfz01

このような状況で蘭印が10月8日に提示した回答は、追加的石油輸出72万6,500トン、そのうち航空機用燃料はゼロというものでした。 当然、日本側の落胆は大きく、小林一三は代表辞任を希望し、政府に容れられています。

2020-04-17 14:54:35
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しかし、日本は東京での交渉で得た62万9,000トンと合算して、135万5,500トンの石油を確保したことになります。さらに、日蘭会商の枠外で65万トンの調達にも成功しており、これを足すと蘭印からの石油輸入は200万トンを上回ります。Kl換算では233万kl、日本の年間需要の半分に相当します。 pic.twitter.com/sZuWEKmQbB

2020-04-17 14:55:36
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これは蘭印にとって融通可能な最大量にほぼ匹敵すると考えられ、交渉が「米国の圧力等により不発に終わった」とする従来の見方は修正されるべきでしょう。 実際、米国の新聞は「蘭印が日本へ石油を提供」と報じ、蘭印当局は米国民から「裏切者」呼ばわりされています。

2020-04-17 14:56:20
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一方で、航空燃料のゼロ回答は、紛れもなく米国への配慮によるものでした。バタビアでの交渉開始に先立つ8月16日、米国国務省顧問のホーンベックは、シェルおよびスタンダードに対し、航空燃料の対日輸出を行わないよう申し入れているのです。 写真はホーンベック pic.twitter.com/7LClOQIxqw

2020-04-17 14:57:18
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しかし、蘭印はワシントンの忠実な下僕ではありません。彼らは、日本からの要求に無かった低オクタン価(69~70)の一般揮発油5万トンの供給を提案し、テトラエチル鉛の添加により高オクタン価の航空燃料に変換出来ることを伝えています。 ここでも、日本への融和姿勢は生きているのです。 pic.twitter.com/5KsC2CQjB3

2020-04-17 14:58:41
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蘭印がかかる「コウモリ外交」を展開した動機は、当時の国際情勢にあります。 英国はバトル・オブ・ブリテンの最中にあり、米国は未だ孤立主義から脱却できていませんでした。 両国は蘭印に対し、日本と妥協しないよう求めましたが、軍事的支援を行う用意は全くなかったのです。 pic.twitter.com/raO9e60HGv

2020-04-17 14:59:52
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当時、3選を狙うルーズベルト大統領は、米国が参戦しないことを選挙公約に掲げており、実際に蘭印が米国から軍事援助の確約を得たのは1年以上後の1941年11月でした。 従って、蘭印は不用意に日本を刺激することだけは、絶対に避けねばならなかったのです。 pic.twitter.com/UhMxyYwiIz

2020-04-17 15:01:05
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日本側が、もう少し相手の立場と出方を読むドライな思考が出来ていれば、或いはもっと大きな譲歩を引き出せたのではないか、と思います。 10月8日の回答後も日本は交渉を続けますが、蘭印の態度は頑なで、11月12日、日本はこれを飲みます。200万トンの輸入が確定した瞬間でした。

2020-04-17 15:02:07
HIROKI HONJO @sdkfz01

余談ですが、蘭印にはオクタン価91の燃料精製施設があり、日本への輸出が規制されたために相当量の余剰が生じていたようです。 これは、太平洋戦争開戦後に日本軍に接収されたかも知れません。 pic.twitter.com/nfcM5iAOVD

2020-04-17 15:03:18
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HIROKI HONJO @sdkfz01

その後、世界情勢は大きく変転します。 英空軍はルフトバッフェをブリテン上空から駆逐し、米海軍は宣戦布告の無いままUボートと交戦状態に入りました。 米国の軍需産業は動員体制に入り、世論も参戦へと傾いていきます。 pic.twitter.com/vtXpgUAO3k

2020-04-17 15:04:32
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HIROKI HONJO @sdkfz01

1941年に入るとドイツはソ連へ侵攻、その敗北は確定的となりました。 同年7月末、日本は南仏印へ進駐を開始。 これは日米関係のポイント・オブ・ノーリターンとなり、米国は直ちに全面的な石油禁輸を実施します。2日後、英国もこれに続きました。 pic.twitter.com/OdAvypmpbE

2020-04-17 15:06:03
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HIROKI HONJO @sdkfz01

蘭印も間もなく対日経済制裁を発動しますが、当初その対象から石油は除かれていました。なんと、米英と蘭印は互いに全く連絡を取っていなかったのです。蘭印はなお、対日戦回避を希求していました。 ABCD包囲網といっても、この程度のものであったことは、記憶しておく必要があります。 pic.twitter.com/AG51En9gBl

2020-04-17 15:07:51
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HIROKI HONJO @sdkfz01

しかし、蘭印のかかる日和見的態度は最早通用しませんでした。会商によって成立した石油輸出200万トンのうち、実際に搬送されたのは1941年7月までの船積み分、90万トンでした。 その後の日本の武力行動がどのような結果に立ち至ったかは、読者諸賢の良く知るところでありましょう。 pic.twitter.com/kxi63Uomz3

2020-04-17 15:09:17
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HIROKI HONJO @sdkfz01

@amagi88kanntai いまさらながら。出典、というより元ネタは、張氏の前掲論文の他、岩間敏氏の「戦争と石油」、三輪宗弘氏の「戦前期の航空機用揮発油の技術開発 」、平井晴己氏の「ガソリンの政治経済学」、その他WIKI、各種サイトです。 張氏と岩間氏の記述は所々食い違ってて、擦り合わせに苦労しました。

2020-04-17 21:48:45

アメリカ対日石油禁輸

石部統久 @mototchen

戦争と石油(3) ー『日蘭会商』から石油禁輸へ hinode.8718.jp/images/pdf/war…

2020-04-18 11:52:58
ハフポスト日本版 / 会話を生み出す国際メディア @HuffPostJapan

【安倍首相が #真珠湾訪問】真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」 huff.to/2huOcYb

2016-12-28 07:57:33
リンク ハフポスト 真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」 12月8日は「国民が国家の行く末に関われなかったことを噛み締める日だ」 819 users 609

「日本は北部仏印へ進駐します。日本はフランス側と交渉をした上で進駐しました。

この時、アメリカはどう対応したかといえば、日本へ圧力はかけたものの、ある意味、計算された圧力のかけ方を選んだ。日本側はアメリカから戦略物資である石油や屑鉄(鋼材の原料)を輸入していましたが、その輸入を許可制にしたのです。

許可制や禁輸といえば一見強硬ですが、この時アメリカは日本の飛行機が用いない「オクタン価87以上の航空機用ガソリン」と「潤滑油」のみを禁輸としました。ハルがいた国務省などは、「厳しい経済制裁や禁輸を日本に課せば、それは日本に南進や開戦の口実を与えるだけだ」と考えていた」

「40年7月に日本が北部仏印に進駐したとき、ルーズベルトやハルに対して、財務省のモーゲンソーなど対日強硬派からは、「敵国日本に、なぜアメリカにとっても必須の航空用ガソリンなど輸出し続けるのか」といった批判が出ました。そのため、オクタン価での制限などの措置が取られた」

「41年7月、日本の南部仏印進駐時には、アメリカ国内状況に変化が起きていた。41年夏、ルーズベルトとハルはワシントンを離れていました。

この2人の不在時に暗躍したのが、先のモーゲンソーです。彼は対日強硬派が影響力を持ちうる、外国資産管理委員会という機関に、禁輸に関する職務を専管させるようにしてしまいます。

ハルの国務省とルーズベルト大統領は、この委員会が対日資産の全面凍結と全面禁輸を実施していたことを、日本の野村大使からクレームがつけられるまで、なんと知らなかったのです。アメリカ側にも官僚制の対立があり、対日態度の差異による権力闘争があったということです」

真珠湾攻撃から75年歴史家加藤陽子氏は語る太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった

リンク history.ceburyugaku.jp 第1部4章 日米交渉(9/36) アメリカから日本に石油が一滴も入ってこなくなった謎に迫る | セブ島留学レキシジン 前回は仏印中立化案をめぐる日米の動きについて紹介しました。今回はアメリカから日本に石油が一滴も入ってこなくなった謎について、追いかけてみます。日本側の見解では南部仏印進駐に対する経済制裁としてアメリカが石油の対日全面禁輸に踏み切ったことにより、日本はアメリカと戦争をせざるを得なかったと捉えることが一般的です。 しかし、この見解はアメリカでは通用しないことがあります。なぜならアメリカ側は、石油の対日全面禁輸など行っていないと主張できるからです。 1

「8月1日以降、日本には一滴の石油もアメリカから入ってこなくなりました。米大統領が容認していたにも関わらず、なぜ石油は事実上の全面禁輸状態に陥ったのでしょうか?

- なぜ石油は一滴も入ってこなくなったのか -

結論から言えば「なぜ日本に石油が入ってこなくなったのか」という問いに対する明確な答えは、未だに為されていません。日米の研究者によって、その仕組みや誰が命じたのかなどの探求が行われていますが、決定的な答えは出ていません。真相は未だ闇のなかにあります。

どのような仕組みで石油の全面禁輸がなされたのか、森山優著『日米開戦と情報戦』(講談社)を参考に大まかに追いかけてみます。

日本に対する輸出管理が決定されたのは7月18日です。その決定に基づき、ウェルズ国務次官から各省の官僚たちに対して、政策を実行に移すためのプランの立案が命じられました。

輸出管理への移行という大枠が決まっても、それを実行に移すためにはシステムの構築が必要です。そうした細かい作業を詰めるのは、どこの国でも官僚の務めです。

大がかりなシステムの構築にあたっては、一つの省庁だけで完結することは、まずありません。国務省や財務省など異なる省庁間での取り決めも必要となり、複雑な確認作業が交錯します。

こうした過程を経て、日本に対する輸出管理のためのシステムが完成しました。在米日本資産を凍結すること、石油や綿、その他の輸出品を許可制に改めること、認められた量に関しては輸出ライセンスが発行されること等々の手順やシステムが決定されました。

システムが完成した段階でも、石油は日本に輸出される手はずになっていました。ところが実際には、システム通りに輸出ライセンスが発行されたにも関わらず、石油は日本に輸出されなかったのです。

なぜならば石油取引のために欠かすことのできない代金の支払い許可が下りなかったためです。日本側が支払いたくても、米国内にある日本の資産は凍結されているため物理的に支払うことができません。

そこで日本側は日本からドル紙幣を持ちこんで支払うことや金を輸送することで支払うことなどを提案しましたが、アメリカ側は回答を先延ばしにしたまま応えようとしませんでした。三省合同外国資金管理委員会は 「米国にある手持ちドル、現金のみで決済を受付ける」と主張するばかりです。

そのため、輸出管理局がいくら石油の輸出許可を与えても資産凍結の解除証が発行されないため、実際に石油の買い付けができなかったのです。

日本側は何度も抗議をしましたが、「手続中」「検討中」を言い逃れに、ついに解除証は発行されませんでした。

日本に石油を渡すという大統領令を無視して、結果的に日本への石油の輸出は全面的に止まることになったのです。問題は、いったい誰が、どのような指揮系統で対日石油全面禁輸を為したのかにあります」
日米交渉(9/36) アメリカから日本に石油が一滴も入ってこなくなった謎に迫る