日本における 飛行機から自動車へ 航空技術者たちの戦後史

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HIROKI HONJO @sdkfz01

【飛行機から自動車へ 航空技術者たちの戦後史】 1945年、日本は戦争に敗れました。それは、戦時下にあって世界水準の航空機をいくつも開発してきた航空技術者たちの努力が潰えたことを意味していました。 やがてGHQが航空機の製造を禁じると、彼らの多くが未だ揺籃期にあった自動車産業へ移ります。 pic.twitter.com/FqKdUc6FhP

2020-04-18 15:30:23
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そこで彼らが目にしたのは、幼稚な技術、貧弱な設備、不足する資金、多発する不具合でした。これだけでも大変な逆境ですが、更なる脅威がありました。欧米の巨大自動車会社が日本市場を狙っていたのです。 日本の再建を賭け、彼らは再び日の丸を背負い、技術の戦いの最前線に立つのです。 pic.twitter.com/fe7RYXNeDU

2020-04-18 15:30:53
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戦後の混乱がひとまず落ち着いた頃の日本の自動車生産は年間3.9万台(1952年)。これは米国の554万台は言うに及ばず、イギリスの73万台、同じ敗戦国である西ドイツの43万台と比べても、大きく見劣りしていました。 しかも生産される車種はトラックやバスが中心で、乗用車は僅か4千台。 pic.twitter.com/qyn8yGbP2M

2020-04-18 15:31:29
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欧米の企業は技術と設備に巨額の投資を行い、優れた乗用車を機械化された流れ作業ラインで大量に生産し低価格で販売できました。一方、相対的に「零細」で「手工業的」な日本企業は、品質はもちろん、生産コストや価格でも太刀打ちできなかったのです。 pic.twitter.com/8jHy4ysjLr

2020-04-18 15:32:05
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このため、日本メーカーは競合を避けて大型商用車を生産していましたが、これも政府の保護政策に依存している有り様。 例えばGMのトラックは1台1,800ドルだったのに対し、日本製は3,500ドル。加えて性能と信頼性には格段の開きがありました。高い関税が無ければ成り立ちません。 pic.twitter.com/BvWYF6Ewfi

2020-04-18 15:32:43
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貧弱な日本の産業が大衆向けの足として産み出した苦肉の策が、オート三輪です。まだ貧しかった日本の人々には、外国製乗用車は高根の花。当時の日本の国情には、この安価で簡素な車両はうってつけだったのです。 オート三輪は1953年に約10万台が生産されています。 pic.twitter.com/gyn1QZax9l

2020-04-18 15:33:19
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しかし、日本の自動車産業が生き残るには、乗用車の生産は避けて通れない道でした。スケールメリットが大きい自動車生産の世界では、フォードT型やフォルクスワーゲン・ビートルのように、大衆車を大量に作って初めて、コストを劇的に低減し、競争力を得ることが出来るのです。 pic.twitter.com/UMkBAgxXuF

2020-04-18 15:34:01
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通産省による保護政策も、批判にさらされていました。運輸省はタクシー業者などの要求を背景に、高コストで低性能の国産車への保護・優遇は、国民の利益を損ねると主張し、政策論争になります。 1952年の参議院運輸委員会では、外車ディーラーの梁瀬長太郎氏が次のように述べました。 pic.twitter.com/cr7DnSBme1

2020-04-18 15:34:40
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「外車は近年長足の進歩をしているが、国産車は比較にならない。国産車はトラックとディーゼルだけをつくっておればよかろう。…私の経験から言えば、国産車と外車を競争させるのはオリンピックに2,3歳の子供を出すのと同じだと思う」

2020-04-18 15:35:11
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今や、日本の自動車メーカーは生存を賭けて、高性能かつ安価な乗用車の生産に挑戦する必要に迫られたのです。

2020-04-18 15:35:39
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日産、いすゞなど大手メーカーが続々と外資との提携に進む中、設立から5年に満たない弱小メーカーが独自開発の乗用車を市場に投入します。 立川飛行機の流れをくむ「たま自動車」が開発した「プリンス・セダン」です。 時に、1952年3月。 pic.twitter.com/Q7EsOvySm9

2020-04-18 15:36:20
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同社の技術課長は、かつて立川飛行機で高高度長距離偵察機「キ74」の開発に携わった田中次郎(1939年東工大卒、同年立川飛行機入社。その後陸軍へ入隊、陸軍航空技術研究所へ配属。軍籍のまま立川飛行機でキ74の与圧装備を担当)。 pic.twitter.com/KGGZjMWkmf

2020-04-18 15:37:02
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設計統括は同じく立川飛行機で日本初の高高度機「SS1」や、高高度戦闘機「キ94」の気密室設計を手掛けた日村卓也(1938年徳島高等工業学校卒、同年立川飛行機入社)。 写真の後列左端、1954年頃 pic.twitter.com/Jbv6KICw8r

2020-04-18 15:37:47
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プリンス・セダンは、皇太子明仁親王の立太子の礼にちなんで名づけられたものでした。同車は1,500㏄のエンジンを搭載し、1,000㏄以下が主流であった競合国産他車を圧倒します。販売は好調で、5年間に3,700台が生産されました。 pic.twitter.com/Q2fvRkLMeZ

2020-04-18 15:38:32
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勢いに乗った「たま自動車」は社名を「プリンス自動車」へ変更、旧中島飛行機系の「富士精密」と合併(1954年)すると、自動車メーカーとしての地位を確固としたものとすべく、1957年、野心的な新型車を発表します。 これこそは、初代スカイラインに他なりません。 pic.twitter.com/qN6BuxW771

2020-04-18 15:39:19
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引き続き設計統括を手掛けた日村は、かつて航空機の機体設計を手掛けた技術者らしく、セミ・モノコック構造を採用(本当はモノコックにしたかったらしい)、軽量化を図ります。 エンジンを担当したのは、中島飛行機で日本初の2,000馬力級エンジン「誉」の開発に参画した岡本和理。 pic.twitter.com/miPR6t8vYe

2020-04-18 15:40:13
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岡本氏は1941年東京帝大卒業後、陸軍航空技術研究所に配属され、中島飛行機でエンジン開発に従事。というか、「誉」のトラブルシューティングに青年時代を捧げた人です。

2020-04-18 15:40:50
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彼はプジョーのエンジンをモデルに、幾多の試行錯誤を経て1500㏄、60馬力のFG4A30(直列4気筒)を開発します。このエンジンの優れた出力により、スカイラインは同クラスの日本車としては最速の時速125キロを誇りました。 pic.twitter.com/qacilOeRmd

2020-04-18 15:41:44
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純国産で外車に対抗可能な乗用車としては、1955年にトヨタが初代クラウンを発表していますが、スカイラインはこれを馬力・速力とも上回り(クラウンは48馬力、最高速度100キロ)、飛行機屋の意地を見せます。 また、排気量拡大型の試作車スカイライン1900は明仁親王の愛車となりました。

2020-04-18 15:42:28
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余談ですが、スカイラインGTの開発には、20代で伝説のエンジン「誉」(疾風や紫電改、銀河に搭載)を開発した天才技術者、中川良一氏が参画しています。 この会社の人材ガチャ、チート過ぎないか? pic.twitter.com/GJdvN5BVb2

2020-04-18 15:43:29
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1966年、プリンス自動車は日産に合併・吸収されますが、スカイライン・シリーズは「技術の日産」の象徴として、現在に至るまで継承されています。 pic.twitter.com/BkdTSCqDWi

2020-04-18 15:44:33
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こうして1950年代後半、クラウンとスカイライン、2つの純国産乗用車を開発した日本の自動車産業ですが、いずれも非常に高価(100万円近い)で、ユーザーは富裕層かタクシー業者に限られました。 中島飛行機の血を引く富士重工が小型の大衆車の開発に着手したのは、まさにこの時だったのです。

2020-04-18 15:45:15
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設計統括の百瀬晋六(1941年東京帝大卒後、中島飛行機入社。招集後、海軍航空技術廠に配属され、43年から中島飛行機で「誉」への過給機装備に従事)は、日本でも必ずモータリゼーションが起こると考えていました。 彼は、K10と呼ばれるこのプロジェクトで、その先鞭をつけようとしたのです。 pic.twitter.com/qv0YhxQBT4

2020-04-18 15:46:07
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開発チームには、かつて中島飛行機で97艦攻や天山の足回りに関わった小口芳門(百瀬の補佐役)や、海軍航空技術廠発動部に在籍した菊地庄治(エンジン開発統括)など、航空技術者出身のベテランが勢揃いしていました。

2020-04-18 15:46:51
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しかし、彼らの叡智をもってしても、道のりは非常に険しいものでした。そもそも、エンジンが非力です。360㏄、16馬力。これは当時の軽自動車規格の上限であり、かつスクーターしか生産したことのない富士重のエンジン工場が作れる最大限の大きさですが、排気量ではオート三輪にすら劣ります。 pic.twitter.com/4CdiKk18XJ

2020-04-18 15:47:49
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