救助を求める方々を手厚くメッタ打ち!昔の漁村において外国などの難破船は、村総出のボーナスイベントだったのかも

まあ生きるため仕方ない節はある 日本残酷物語は超面白いのでオヌヌメ。
202
鍛屋 山源 @tonogen0805

今日実家の食堂に飯食いに行ったら 何時もの常連で元漁協組合長してる爺さんと話す機会があった。 その元組合長が幼少期祖父から聞いた話で 昔の漁村は(~明治初期から中期あたりまで?)外国などの難破船が打ちあがると村一円で女子供問わず手に手に棒や櫂・錨等持って救助を求める方々を

2020-05-09 20:15:15
鍛屋 山源 @tonogen0805

手厚く殴って葬り遺体は海に投げてお魚の餌にしその遺体を食べた魚を取り生計の糧にする。 そして金品のほか身ぐるみまで剥いでしまうという話で 当時の網本の家に行けば海外製の珍しい品が所狭しと飾られていたそうだ。当時としては年に一回あるか無いかのボーナスイベントだったとの事。 

2020-05-09 20:15:16
鍛屋 山源 @tonogen0805

正直ここら辺の漁村でなくとも当時としては日本各地の漁村では普通に暗黙的な感じでやっていたのではないだろうか? という古き良き民度が低かった当時の美しい日本の話w

2020-05-09 20:15:16
鍛屋 山源 @tonogen0805

呼び名は『たんや やまげん』 武術の稽古道具制作販売いたしております。⇩よりカタログ 9407959107.amebaownd.com/posts/23993244 修武堂にて古武術(試斬・卜伝流・弘前伝林崎新夢想流居合) 鍛冶 研ぎ 古武術稽古道具 蔵金具 和釘 古式農具等の制作

9407959107.amebaownd.com/posts/23993244

そうりょ ああああ @anmalanicora4

@tonogen0805 稲作の収穫量が上がる昭和あたりまで、日本の村は貧しいところがほとんどだったようです。 地理的に作物が育てられない、交易も出来ないという隔絶された場所もままあり、そのような場所では物的精神的にも余所者を助ける余裕はなかったのでしょうね… amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9…

2020-05-10 15:34:25
日本残酷物語1 (平凡社ライブラリー)

宮本 常一,山本 周五郎,揖西 高速,山代 巴

嘉陽与南 @DONAN_KAYO

これに関して。向井流で「昔は嵐になると浜で火を焚いて釜に湯を沸かし米を入れて煮ておく。遭難しそうな船が通りがかって寄ると助けるふりをして熱いペースト状になった湯をかけて襲った」と聞いてます。各地でやっていたのではと思っています。 twitter.com/tonogen0805/st…

2020-05-10 09:16:04
町田@司書・システマ使い・火薬と鋼運営 @machida_77

@DONAN_KAYO 民俗学者の宮本常一の『海の道』等によると瀬戸内海の伝承で、海賊対策として船で粥や汁を炊いておいて海賊が現れたらかけて戦うという話があります。播磨灘や玄界灘では粥を炊かなかったとあり、地域差があったようです。

2020-05-10 12:24:33
嘉陽与南 @DONAN_KAYO

@machida_77 有難うございます!なるほど、向井氏は三重県だったはずですので、瀬戸内の文化圏だったのかもしれないですね。

2020-05-10 12:41:31
帝国の昭和 @Ulc9WpMZsM8Yd6e

@tonogen0805 @fluor_doublet 日本残酷物語では貧困のせいになってたが、落武者狩りと同じで、持ち主がないものが転がり込んだ感じなんだろうな

2020-05-11 14:21:43
リンク Wikipedia 破船 『破船』(はせん)は、吉村昭の時代小説。1980年7月より1981年12月まで雑誌『ちくま』に『海流』として連載されたものを加筆し、1982年に筑摩書房より刊行された長編小説である。 海辺の小さくて貧しい村を舞台に、難破船を「お船さま」と呼んで待ちわびる人々の悲哀と、それゆえに起こる悲劇的な結末を書いた時代小説である。 舞台は北の海に面した寒村である。村の畑は小石が多い痩せ土壌で、雑穀程度しか育たない。海の恵みは気まぐれで、いざ捕れた魚を売ろうにも町までは遠い。家々では、一家の誰かが身を売り、他所の町で下
瑠姫@2/24ラグコス💙💛🌻 @Ruki_DR

@tonogen0805 おそらくですが、助けても貸せる宿も分け与える食料も無い。外国と連絡を取れるような機関へコンタクトする手段も殆ど無い。 かといって放置すれば食料等を目当てに村を略奪されるかもしれない。 自衛の為にもそうせざるを得なかったのかと思いました。残酷と思うのは余裕のある現代人の発想でしょう。

2020-05-10 14:54:04
ちょ~ @agemaru2

@tonogen0805 鎖国時代は外国人を助けると助けた人だけでなく村民全員が厳重に処罰されたんで、見殺しにしていた・殺していたそうです。開国後も続いていたのはひどい。

2020-05-10 09:52:40
びび子 @vivid_e

@agemaru2 @tonogen0805 「どうして殴り殺さないといけないのか」が忘れ去られたまま、「殴り殺す」という風習(?)だけが残ったのでしょうか。ひどい、怖い話ですね……。

2020-05-10 13:33:04
びび子 @vivid_e

(そもそも「殴り殺さないといけない」決まりが恐ろしいのは大前提として。)

2020-05-10 14:59:26
背苦死威を目指す しょうまじん @ryu0ryma

@tonogen0805 遥か昔の九州の民は… 鎌倉武士団の博多駐留の話を聞くと有り得なくないと思いました…(笑)

2020-05-09 22:05:13
鍛屋 山源 @tonogen0805

@ryu0ryma まぁ難破船襲うとかは 黙ルール的な事もあったので 記録には残りづらいとは思いますねw それとこの話出た地域は『安藤水軍』の末裔がいるところで元は海賊の漁村ってのも考えられます。

2020-05-09 22:09:49
背苦死威を目指す しょうまじん @ryu0ryma

@tonogen0805 確かに公的記録に残せるかと問われれば難し過ぎますね(笑) 水軍ですか!確かに今でも外国の話にはなりますが漁が出来ない時季は海賊行為で稼ぐ漁民は居るそうですし、何らおかしくはないですね🤔

2020-05-09 22:12:52

エルトゥールル号も...

リンク Wikipedia エルトゥールル号遭難事件 エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)は、1890年(明治23年)9月16日夜半にオスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖にある紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件。 現在、和歌山県の串本町とトルコのヤカケント町、メルスィン市は姉妹都市である。樫野埼灯台そばにはエルトゥールル号殉難将士慰霊碑およびトルコ記念館が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭
俊衛門 @toshiemonn

@tonogen0805 トルコ人がやたら持ち上げてくるエルトゥールル号の救難活動も、もしかしたら……(^^;

2020-05-09 21:03:11
ncc1701 @ncc170116

@toshiemonn @tonogen0805 美談が美談として語り継がれるのは、そんな話が滅多にないからだ、と言いますね。つまりエルトゥールル号のような難破船救助も...。

2020-05-10 21:02:54
鍛屋 山源 @tonogen0805

@taiwansuisyuうもです。正直この話で、明治期にある漁村は難破民を襲おうとしたら密告が上がり 仕方なしに救助する羽目になったとかw それが元で今現在 そこの漁村と難破した外国で救助したとの事を切っ掛けに姉妹都市になっていますw (ただし襲おうとしたことは隠蔽されてますがw

2020-05-09 20:26:26
台湾に帰化して、推手と套路で台湾国体の頂点を目指してみた @taiwansuisyu

@tonogen0805 そうなんですね。 美談が台無しの裏事情、そういうのも含めて好きです。 過去の日本がどういう生活をしていたか、どういう考え方で何をしたか。 そして今どうつながっているか、暗い話残酷な話であってもそれが現実なら興味がわくんですよね。 とても興味深いお話でした。 ありがとうございます。

2020-05-09 20:28:06