鳳翔の艦娘講座 番外編「日本とトルコの友好~エルトゥールル号遭難事件」

日土友好のきっかけとなった事件についてのお話ですわね。
5
鳳翔 @Housyou_kankore

トルコの方は本当に心優しいですわね。 何故、かのお国がここまで日本に親しくしてくれるのか。 それは、明治時代に起きたある事件が始まり、と云われています。 それでは、行ってみましょうか。本日の #鳳翔の艦娘講座 番外編は、「日本とトルコの友好~エルトゥールル号遭難事件」です。

2013-09-08 14:20:40
鳳翔 @Housyou_kankore

エルトゥールル号は、1864年に建造をされた、トルコ海軍の木製フリゲート艦です。 当時のトルコはオスマン帝国の時代。海軍は主に地中海を中心として活動をしていました。 トルコ革命の後はトルコ海軍として継承をされています。

2013-09-08 14:22:58
鳳翔 @Housyou_kankore

艦名はオスマン1世のお父さんであられますエルトゥールル氏にちなんで名付けられています。 簡単に艦歴を紹介しますと、浸水は1853年、就役が1854年。 オスマン帝国が自国沿岸警備の為に建造をしまして、全長76.2m、全幅15.5m、常備排水量は2344トン。

2013-09-08 14:25:07
鳳翔 @Housyou_kankore

石炭燃料の機関を積んでいまして、速力は13ノット。 兵装は15cm単装砲8門、 アームストロング150ポンド単装砲5基、 3.7cm5連装ガトリング砲2基、 2.5cm4連装機関砲2基を装備して居ました。

2013-09-08 14:26:19
鳳翔 @Housyou_kankore

外見は3本の帆走用マストを備えた、当時としては標準的な帆船・石炭機関船の外見を有していました。1番・2番マストの間に艦橋があり、武装は左右に均等配置をされています。

2013-09-08 14:27:37
鳳翔 @Housyou_kankore

1864年にロンドンに於いて、船体修理と兵装更新の近代化改装を受けたそうです。 さて、1887年に日本の皇族方で小松宮夫妻が親善目的でイスタンブールを訪れましたが、それに応える形で、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて、エルトゥールル号は日本に派遣をされました。

2013-09-08 14:30:18
鳳翔 @Housyou_kankore

1889年7月14日、イスタンブールを出航。途中の航海はかなり困難を極めたそうですが、立ち寄ったイスラム諸国では歓迎を受けたそうです。 そんな旅路でしたが、11ヶ月をかけて翌年1890年6月7日に、横浜港へと入港。

2013-09-08 14:32:29
飛龍 @CV_Hiryu

@Housyou_kankore 今から100年以上前の話なんですね。

2013-09-08 14:33:11
鳳翔 @Housyou_kankore

特使一港は明治天皇陛下に皇帝親書を奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けました。 そんなエルトゥールル号でしたが、長旅の消耗や資金不足、乗員の疲労によるコレラの蔓延などがあって、2ヶ月の滞在の後、1890年9月15日にようやく出航の目処が立ちました。

2013-09-08 14:34:52
鳳翔 @Housyou_kankore

「特使一行」ですね。お詫びして訂正します。

2013-09-08 14:35:21
鳳翔 @Housyou_kankore

さて、そんなエルトゥールル号の様子を見た日本側ですが、艦も人も消耗をして居る状況を見て、更に台風の時期にさしかかっていた事もあり、台風時期をやり過ごすように勧めたのですが、エルトゥールル号側はそれを断って帰路につきます。

2013-09-08 14:36:46
鳳翔 @Housyou_kankore

この行動は、イスラム教の盟主オスマン帝国の力をインドや東南アジア方面に知らしめる、と云う意味合いも兼ねていたそうです。 帰りの出航を強行したのも、長く日本に留まり続ける事によって、オスマンの力が落ちたと云われる事を防ぐ為、と云われて居ます。

2013-09-08 14:38:16
鳳翔 @Housyou_kankore

翌日の1890年9月16日の事でした。 22時頃、折からの台風による強風にあおられたエルトゥールル号は、紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突、座礁をします。 それが原因で機関部に浸水、水蒸気爆発を起こして、沈没をしてしまいました。

2013-09-08 14:39:48
鳳翔 @Housyou_kankore

この沈没で、乗員のうち587名あまりが死亡・行方不明となる大惨事となります。 樫野崎灯台に、かろうじて生き残った生存者が、数十mの断崖を這い上り、助けを求めた事により、沈没が発覚をします。

2013-09-08 14:41:30
鳳翔 @Housyou_kankore

灯台守の通報を受けた、近傍にあった大島村(現在の串本町樫野)の住人さん達が総出で救助と生存者捜索・介抱ににあたります。 大島村は漁村で、この頃は台風で出漁出来ず食料の蓄えはわずかだった、にもかかわらず、非常用の食料まで供出して献身的な介護が行われたそうです。

2013-09-08 14:43:17
鳳翔 @Housyou_kankore

この結果、69名が救出され生還することが出来ました。 翌日、樫野の区長から大島村長に事件が伝えられ、村長は神戸港の外国領事館に助けを求め、乗員の神戸病院への搬送と、県を通じて日本政府に通報を行いました。

2013-09-08 14:45:35
鳳翔 @Housyou_kankore

この知らせを聞いた明治天皇陛下はたいそう心を痛められ、政府として可能な限り援助を行うように指示したと云われています。 また、新聞はこの事件を大きく取り上げ、多くの義援金・弔慰金が集まったと云われています。

2013-09-08 14:46:40
斑鳩之イカ麿呂 @_ikaluga_

@Housyou_kankore たしかイラク戦争の時に飛行機を出してくれたトルコ側はエルトゥールル号の借りを返すと言って飛行機を出してくれたんだよね

2013-09-08 14:47:33
鳳翔 @Housyou_kankore

こうして、遭難者に対する支援が政府を挙げて行われました。 生存者の方々は一旦東京に送られた後、10月5日に東京の品川湾から、以前にも紹介した事があります初代の金剛さん、初代の比叡さんに乗って、遠洋航海の一旦として翌年の1891年1月2日に、イスタンブールに送り届けられました。

2013-09-08 14:48:28
鳳翔 @Housyou_kankore

当時のオスマン帝国内部では、このエルトゥールル号の沈没に関して、人災の側面は隠されて天災として報道をされると共に、遺族への弔慰金が集められました。 また、この時新聞を通じて大島住民・日本政府の尽力が伝えられると、遠い異国の日本に対して好印象が生まれたと云います。

2013-09-08 14:50:53
鳳翔 @Housyou_kankore

事件から2年後の1892年、山田寅次郎さんと云う茶道家さんが、日本国内で自ら集めた義援金を携え、イスタンブールを訪れます。 民間人ながら義援金を携えて日本から来た事が知られると、彼は熱烈な歓迎を受け、時の皇帝に拝謁の機会すら得ます。

2013-09-08 14:54:32
鳳翔 @Housyou_kankore

また、彼はこの時皇帝の要請でトルコに留まる事になります。 彼は貿易商店を開き、トルコ軍士官学校の学生達に日本語や日本の事を教え、日本政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、国交樹立がされていない中での交流に尽力をされます。

2013-09-08 14:56:45
鳳翔 @Housyou_kankore

彼の教え子には、後のトルコ共和国の初代大統領も居たと云われています。 日露戦争が勃発をして日本が勝利をすると、長らくロシアからの圧力を受けていたオスマンでは、日本の快挙としてこれに熱狂。子供に「トーゴー」の名前を付ける事が流行をしたそうです。

2013-09-08 14:58:02
鳳翔 @Housyou_kankore

しかしながら、国交についてはオスマン帝国時代には結ばれる事はありませんでした。これは、当時日本がオスマン帝国に対して治外法権付きの条約を要求した事に対して、オスマン帝国側が不平等条約の拡大を嫌った為でした。

2013-09-08 14:59:56
鳳翔 @Housyou_kankore

1914年に第1次世界大戦が発生。この時ドイツ側の同盟国に引き入れられつつあったオスマン帝国は日本と敵同士となります。 戦後オスマン帝国の解体・トルコ共和国の成立を経て、1924年において、日本とトルコは正式に国交を結びました。

2013-09-08 15:01:49