(2020/06/19に中断)日本語で学ぶアメリカ史 第二話「アメリカ独立革命:1775-1783」パート1 (教材:David M. Kennedy and Lizabeth Cohen, "American Pageant'' 16th ed.)

注:本プロジェクトは2020年6月19日に凍結しました。以下はそれ以前の文章です。 今回から第○章ではなく第○話に変更。旧第七章を第一話とみなします。
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Mr. HB @USHist_English

第二話 「アメリカ独立革命:1755-1783」 準拠:The American Pageant, 16th ed. Chapter8, pp.135-157.

2020-05-24 23:27:48
Mr. HB @USHist_English

Part 1 ●もはや開戦しかない、のだが… 世界史履修者にはおなじみのレキシントン・コンコードの戦いは、ボストン包囲戦へと展開しました。約2万人もの植民地人民兵、いわゆるミニットマンが集結したのです。 ミニットマン pic.twitter.com/DJD5rq9Ftg

2020-05-24 23:39:37
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Mr. HB @USHist_English

ところが、1775年5月10日よりフィラデルフィアで開催された第二次大陸会議には、この期に及んでなお開戦に尻込みする者が少なくありませんでした。まだ国王と英国議会への請願に託したかったのです。もちろん、無視されました。

2020-05-24 23:40:35
Mr. HB @USHist_English

こうして大陸会議はいよいよ開戦準備を余儀なくされます。資金調達、陸海軍の創設に並行して、ジョージ・ワシントンがボストン包囲軍の指揮官に指名されました。

2020-05-24 23:41:56
Mr. HB @USHist_English

彼は軍人としては有能ではなく、政治的な理由から選ばれました。というのも、ボストン包囲軍はニューイングランド人から成り、中部・南部植民地には不愉快だったところ、ワシントンは中部植民地ヴァジニアの指導者だったからです。地域間の対立はこんな時にも現れていました。

2020-05-24 23:42:41
Mr. HB @USHist_English

また、庶民の暴走を抑える「貴族」の役割も期待されていました。ワシントンは最大のアメリカ植民地ヴァジニアの裕福な名士だったからです。庶民と「貴族」の対立は初期共和国における国のあり方を巡る重大な争点となります。

2020-05-24 23:43:12
Mr. HB @USHist_English

大陸会議の選択は一見すると軍事的に合理的とは言えません。しかし、人々を集結させ導いていく指導力と人間性という武器がワシントンにはありました。負け戦の多かった彼がアメリカを導けたのはそのためです。大陸会議は結果的に正解を選んでいたと言えるでしょう。

2020-05-24 23:43:42
Mr. HB @USHist_English

●「アメリカ反乱」の動向 独立宣言を出す以前のアメリカは反乱状態だったと言えます。正式には1775年8月に国王がアメリカは反乱状態にあると宣言しましたが、こうなってしまった原因がバンカーヒルの戦いでした。 バンカーヒルの戦い pic.twitter.com/jQlyiI59y0

2020-05-24 23:46:22
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Mr. HB @USHist_English

1775年5月、イーサン・アレンとベネディクト・アーノルドが率いる少人数部隊がニューヨーク北部のタイコンデローガとクラウンポイントでイギリス軍の要塞を攻略、ボストン包囲に必要な軍事物資を入手しました。

2020-05-24 23:47:01
Mr. HB @USHist_English

そして6月、革命軍とイギリス軍が丘を巡って衝突します。これがバンカーヒルの戦いです。イギリス軍3万人の正面攻撃に対し、1500人の革命軍が塹壕を用いて善戦しました。しかし、火薬が尽きたため革命軍は撤退を余儀なくされました。 バンカーヒル記念塔(294段の階段を登れます) pic.twitter.com/5Lc9BUKwcX

2020-05-24 23:48:54
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Mr. HB @USHist_English

イギリスにとって8月の反乱状態宣言が最後の一線であったなら、アメリカにとってはヘッセン人傭兵の投入がそれだったでしょう。9月、国王は金を欲していたドイツ諸侯からドイツ人傭兵を雇用する契約を結び、反乱鎮圧に投入。この傭兵の多くがヘッセン出身だったので、ヘッセン人傭兵と総称されました。

2020-05-24 23:49:39
Mr. HB @USHist_English

ヘッセン人傭兵の投入はアメリカ植民地人に衝撃を走らせました。今まではイギリス人同士の争いだったところに外国人傭兵を持ち出したからです。もはや単なるイギリス人同士の争いではなくなってしまい、1763年以前にはもう戻れないとアメリカ植民地人に痛感させるには十分だったでしょう。

2020-05-24 23:50:23
Mr. HB @USHist_English

さて、アメリカ側も単に不満を訴えているだけとはもはや言えない暴挙に出てしまいます。革命軍はフランス系住民がイギリス軍に抵抗していると誤認し、味方につけるためカナダへの二方面侵攻作戦を実行してしまったからです。もっとも、フランス系カナダ住民はケベック法で厚く保護されていたのですが…

2020-05-24 23:51:24
Mr. HB @USHist_English

この作戦はリチャード・モントゴメリー将軍とベネディクト・アーノルド将軍によって実施されました。モントゴメリーはシャプラン湖を通ってモントリオールを占領し、ケベックでアーノルドと合流。しかし、アーノルドの軍隊は今のメイン州の森林地帯を行軍して飢餓状態にありました。(続)

2020-05-24 23:52:34
Mr. HB @USHist_English

(承)1775年12月31日は彼らはケベックを攻めますが、あっけなく敗北します。モントゴメリーは戦死、アーノルドは負傷。生き残った兵士はモントゴメリーの進軍経路を反対に進み敗走しました。

2020-05-24 23:52:37
Mr. HB @USHist_English

1776年に入ると、1月にはヴァジニアのノーフォークがイギリス軍に焼き払われた一方、3月にはボストンに立て篭るイギリス軍がとうとう脱出を余儀なくされました。6月にはサウスキャロライナのチャールストン港で革命軍がイギリス軍を撃退。独立宣言以前の「アメリカ反乱」は以上のように展開しました。

2020-05-24 23:54:17
Mr. HB @USHist_English

●不満表明から独立革命へ ここで、何故アメリカ植民地人が独立ではなく不満表明に拘ったかおさらいしましょう。それは国王への忠誠、イギリス帝国臣民意識、植民地間の対立などがあります。反乱に失敗するとどうなるかアイルランドがよく示していたことも挙げられています。

2020-05-24 23:55:22
Mr. HB @USHist_English

しかし、「アメリカ反乱」は独立の機運を高めていきました。ノーフォークを焼き払ったイギリス軍の蛮行、そして何よりヘッセン人傭兵の投入はアメリカ植民地人を取り乱させました。

2020-05-24 23:57:49
Mr. HB @USHist_English

1776年には思想史的なターニングポイントを迎えます。トマス・ペインの『コモンセンス』が飛ぶように売れたからです。本書の政府論は被治者の合意という権力源泉論の先駆的議論でした。また、彼は国王を「イギリスのブルータス」と非難しました。もう国王への忠誠などあったもんじゃありません。

2020-05-24 23:58:38
Mr. HB @USHist_English

ペインの言う「常識」とは要するにイギリスがアメリカを支配する根拠はないということです。彼はイギリスを小さい天体、アメリカを大きい天体に例え、小さい天体の重力が大きい天体を重力で支配することはないから、イギリスもアメリカを支配できないと説き、植民地人を思想的に独立へと導きました。

2020-05-25 00:00:52
Mr. HB @USHist_English

ペインの議論は人民自身が権力の源泉である「共和国」樹立を呼びかけた点も重要です。共和主義は古典古代から議論されてきましたが、イギリスにおいては共和主義の理念が「混合政体論」に含まれると考えられました。共和主義はとりわけ国王とその諮問官らの権力集中を非難する人々に支持され、(続)

2020-05-25 00:02:09
Mr. HB @USHist_English

(承) 1760年代には国王がアメリカ植民地人のイギリス臣民としての権利を奪おうとしている陰謀を信じていたアメリカ植民地人にも広まっていきました。

2020-05-25 00:02:12
Mr. HB @USHist_English

ニューイングランドにおけるタウンミーティングや連絡会議の代表選出は共和主義の実践とされました。世襲貴族がおらず土地所有農民が比較的平等だったこともヒエラルキーを嫌う共和主義と好相性でした。ペインの議論が広く受け入れられた理由は長い歴史的スパンで捉えるべきなのです。 コモンセンス pic.twitter.com/Dg92cBsdLc

2020-05-25 00:03:07
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Mr. HB @USHist_English

ただし、誰もが同じ共和主義理念を抱いていたのではありません。世襲貴族は否定しても「自然の貴族」による統治と社会的ヒエラルキーは必要とする者もいました。熱狂的な自由の追求は社会秩序を動揺させると恐れる者もいました。この問題はアメリカ史にずっと付き纏うことになります。 Part2に続く。

2020-05-25 00:04:27