「ブッカー・T・ワシントン物語」 自由とは与えられるものではなく、勝ち取るものだがそれ以前に「使いこなす」ものの筈である。

#Walkaway 第三十三弾。「自由」を「放縦」と履き違える前に今一度、キング牧師やマルコムXとは異なり地味ではあるがリアリストに徹した彼の「静かな闘い」を再考します。「自由」「平等」の名を借りた「無秩序」に陶酔する「陣営」へのカウンターパンチとして。
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動画『ブッカー・T・ワシントン物語』を訳してみた。奴隷として生まれ、南北戦争後は、解放された黒人たちの教育に一生を捧げたブッカー・T・ワシントン。自助努力の重要性を説いたワシントンの哲学と人生について、プロジェクト21のデリク・グリーンが説明します。 youtube.com/watch?v=OC4xfA… pic.twitter.com/tudzECVmoN

2020-06-15 19:12:53
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南北戦争以来、影響力の大きな黒人リーダーは数多く登場した。フレデリック・ダグラス、W.E.B. デュボワ、そしてマーティン・ルーサー・キング。 しかし、ブッカー・T・ワシントンほど、同時代の人々に影響を与えた人物はいない。 解放後の黒人の地位を確立するためにワシントンが果たした役割は、… pic.twitter.com/OAVnlm7Kzb

2020-06-15 19:13:30
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…支援者から「現代のモーゼ」と呼ばれていた彼の価値、そしてアメリカの価値を証明するものだ。 ブッカー・T・ワシントンは、奴隷として1856年に生まれた。生まれた月日も、父親も、姓もわからない。子供の頃は、ブッカーとだけ呼ばれていた。ワシントンという苗字は自分で選んだ。 pic.twitter.com/Q7Vnb9c5jY

2020-06-15 19:14:28
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北軍の兵士がプランテーションにやってきて、すべての奴隷は解放されたと告げたとき、彼は9歳だった。ワシントンの記憶によれば、最初に湧き出てきたのは高揚感だったが、それは衝撃に変わったという。 南北戦争は終わった。奴隷は自由になった。しかし、何をするための自由なのか? pic.twitter.com/jJy76eke26

2020-06-15 19:14:52
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彼らに何の責任もないにせよ、解放された奴隷は自由に対する準備ができていなかった。読み書きや算数などの基本学力だけでなく、入浴や歯磨きの方法や理由といった衛生面も含め、基本的な生活スキルも身に着ける必要があった。 ワシントンはその人生を教育に捧げた。実用的な教育である。 pic.twitter.com/vJlGsJPeUA

2020-06-15 19:16:16
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彼の旅路は、南北戦争が終わった7年後、1872年に始まる。彼は、800kmをほとんど徒歩で移動し、解放された黒人のための小さな学校にたどり着いた。バージニアにあったハンプトン師範・農業学校である。 なけなしのお金を過酷な旅で使い果たした彼は、着の身着のままで学校に到着した。 pic.twitter.com/8EAb6fJVuI

2020-06-15 19:16:39
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校長だった女性は、学生としての彼の能力を疑っていることを隠しもしなかった。それでも、彼はひるまなかった。最終的に校長は、彼にほうきを渡して清掃の仕事を割り当てた。存在意義を証明するチャンスを与えたのだ。このテストに合格した彼は入学を許され、最優秀の成績で卒業した。 数年後、… pic.twitter.com/W1igKpgvuB

2020-06-15 19:17:05
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…彼は生涯の仕事の場となるアラバマのタスキーギ学校に赴任した。到着すれば、キャンパスを歩けると思っていた。しかし、キャンパスなどなかった。いくつかの掘っ建て小屋と鶏舎があるだけだった。学校には資金がほとんどなかった。だが、熱意のある学生が30人いた。彼にとってはそれだけで充分だった pic.twitter.com/HlZTDLTcrO

2020-06-15 19:18:52
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彼の指導のもと、学生たちは作業を始めた。すべての建物、すべての机は、レンガを重ね、部品を組み合わせながら、学生たちが自分で作った。これは、実際的な教育というワシントンの哲学にぴったりと合うものだった。タスキーギの学生たちは、学業を修めるだけでなく、手に職を付ける必要があったのだ。 pic.twitter.com/Sq7MLKhNh6

2020-06-15 19:19:15
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彼は、これが黒人の人種として向上だけでなく、黒人に対する敬意にもつながると信じていた。卒業生たちは、引く手あまたのスキルを身に着け、社会へと巣立っていった。彼らは地域に貢献し、コミュニティのかけがえのないメンバーとなった。 pic.twitter.com/uRP9gjbPTu

2020-06-15 19:19:38
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「世の中が必要とする仕事ができる個人は、人種にかかわらず、最終的には進歩する」とワシントンは言った。 ワシントンは、彼の哲学の精髄を、1895年のアトランタ博覧会で行った演説に込めた。これは、19世紀後半の最も重要なスピーチの1つになった。 pic.twitter.com/3fs5GV1BWW

2020-06-15 19:20:04
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そのテーマは、黒人が教育的および経済的に発展するには、時間が必要だ、というものだった。そして、白人はできる限りあらゆる方法で黒人を支援する必要があるとワシントンは説いた。それが黒人と白人にとっての最善の利益だと。 pic.twitter.com/S7Gsl2TmcK

2020-06-15 19:20:28
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彼はまた、社会的平等はすぐには実現しないことを黒人は認識すべきだと強調した。政治的行動のみで力ずくでそれを達成することはできない。憲法が約束する市民権は、黒人が結果を出すことで自然に進化するのだ。 彼は言った。「世の中の市場に貢献できるものを持つ人種が、長く排斥されることはない」 pic.twitter.com/HyVPEqdSNp

2020-06-15 19:21:07
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彼がスピーチを終えたとき、黒人と白人を含む聴衆は、割れんばかりの歓声をあげ続けた。当時を代表する黒人知識人のW.E.B. デュボワはその心情をとらえ、黒人向け新聞のニューヨーク・エイジ紙にこう書いた。「(ワシントンのスピーチは)南部の白人と黒人のほんとうの和解の基礎となるかもしれない」。 pic.twitter.com/o20Ou5wYTU

2020-06-15 19:21:34
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残念なことに、そうはならなかった。このスピーチの後、何年も、南部の白人は黒人の進歩を妨げる障害を減らすどころか増やしていった。しびれを切らし始めた人の中にはデュボワもいた。彼は、一度は褒め称えたスピーチを「アトランタの妥協」と呼んでけなした。 pic.twitter.com/4TSqqQXRDY

2020-06-15 19:21:52
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どちらの意見が正しかったのか? デュボワの当初の称賛か、それとも後の批判か? ワシントン自身の決心は堅かった。彼は最初から最後まで、常に現実主義者だった。教育、起業家精神、個人的責任を通じて黒人が徐々に向上していくことが、黒人に力を与え、レイシズムを終わらせる鍵であると信じていた。 pic.twitter.com/MGC0ivj7fN

2020-06-15 19:22:19
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それは公正ではなかった。だが、それは現実だった。 今日、全ての人種に開かれ、全ての人種を受け入れている米国において、黒人の成功に関するワシントンの処方箋は、これまで以上に大きな意味を持つ。それが彼を偉大な指導者、そして預言者にした。 プロジェクト21のデリク・グリーンでした。(了) pic.twitter.com/US3iuPFECe

2020-06-15 19:22:42
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英文スクリプト: prageru.com/video/who-is-b… 注: Du Bois は「デュボイス」が定訳のようですが、動画の中での発音に従い「デュボワ」としました。

2020-06-15 19:25:27