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一面の暗闇が在った。彼は闇に身を浸していた。理性が覚醒していくにつれその闇が己の瞼の裏を映したものだと悟り、ゆっくりと目を開ける。「……此処は」明暗と黒白が反転し、虚空の一点に立つ。完全な無風、真空地帯。周囲には殺風景を通り越したただただ平坦な原野が広がっている。
2011-06-25 19:35:52![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
拠って立つ地面はおろか視界を遮る障害物もない光景に違和感を覚える。否、自分が立つ場所が地面なのだろうとあたりはつくが、それにしても此処は異常だ。聞こえてくる音といえば自らの吐息と心音のみ、生者の気配は絶えてしない。ああ、この世ではない。ではあの世か、その狭間か。
2011-06-25 19:38:17![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「夢か」サムライは呟く。無意識に横に手をやり、腰に刷いた木刀の感触に安堵する。身一つで異空間に放り出されたならばまだしも肌身離さず木刀を所持している限り最悪の事態は防げるだろう。油断ない物腰で木刀に手を添え眼光鋭く周囲を見回し、摺り足で慎重に一歩を踏み出す。
2011-06-25 19:43:15![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
隙を作らぬ身ごなしに警戒心が先立つ。一挙手一投足が抑えた殺気を帯び、冷たい眼光が虚空を射抜く。どこに敵が潜むやも判らぬ。奇襲に備え感覚を極限まで研ぎ澄まし遅々と進む。突如としておぞましい気配が吹きつけ肌が粟立つ。どす黒い悪意を孕んだ念の集合体が不吉に蠢きつつ彼の元へとやってくる。
2011-06-25 19:49:36![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
予感があった。サムライは走る。飛燕の如くひた走り疾風と化し、ぬばたまの黒髪を颯爽と靡かせ駆け付けた先で目撃したのは生理的嫌悪を催す光景。「なんだあれは」絶句する。それは手の化け物だった。無数の手という手、関節をなくしどこまでも果てなく伸び続ける手の群れが一人の少年を追いかけている
2011-06-25 19:53:03![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
反応が思考の速度を上回る。触手の化け物が直の四肢を絡め取り引き寄せようとする。地を蹴り跳躍、逃げ去る背を庇うように化け物の前に仁王立つ。転瞬抜き放った木刀を正眼に構え異形の化け物に肉薄、裂帛の気合とともに一閃、直の細い手首に巻きつく手をしたたか打擲する。
2011-06-25 19:57:39![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
化け物が怒り狂う。どす黒い悪意を乗せた手の群れが高速で地を這いあるいは上空を覆い殺到する。「ーくっ、」捌ききれぬと即断、地に身を投げし転げて回避、さらに網を張るが如く追い縋る手を片っ端から薙ぎ払い斬り払う。
2011-06-25 20:01:04![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
帯刀の剣は悪を絶ち魔を祓う。骨の髄まで刻み込まれた父の教えと武士の誇りが、否、大切な人と二度と失いたくないという想いが劣勢に追い込まれてなお退く事を許さぬ。撓う手が胸板を鞭打ち横一文字に服が裂ける。飛散した血が片方の瞼を塞ぐ。この化け物は恐らく悪意の塊、具現化されたトラウマ。
2011-06-25 20:06:34![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ならば執拗に直を付け狙う理由も察しがつく。闘志と憤怒が相半ば滾り立つ双眸で奇怪に蠢き迫りくる異形の群れを睨みつけ、静かに吐き捨てる。「直は渡さん」木刀を一振りし、高らかに宣言する。「帯刀貢、推して参る」愛する人を守ると誓った。この身を賭して守り抜くと誓った。
2011-06-25 20:10:50![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
矜持で研いで信念で鍛えた刃には、たとえ木から削り出したものでも必殺の気迫が宿る。嘗て直を汚し貶め心身ともに傷付けた下種どもの幻影を卑猥に波打つ手の群れに託し袈裟懸けに木刀を一閃―
2011-06-25 20:13:59![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
目が覚めて最初に認めたのは錆びた配管が幾何学的に這い回る暗い天井、視線を下ろして四面の壁、正面の鉄扉と自らが仰臥したパイプベッド。「……」長く深く吐息し木刀を手探りで掴む。夢の中で斬撃を繰り出した余韻かまだ手に痺れが残っている。毛布をはだけ床に降り立ち、反対側のベッドに歩み寄る。
2011-06-25 20:17:43![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
無事を確認できればそれでよかった、安らかな寝顔を見れば事足りた。己の心配は杞憂だったと、あのおぞましい夢が現実の直に影響に及ぼしてるわけがないと確認できれば……眼鏡を枕元に折り畳み、毛布を羽織ってまどろむ少年をのぞきこむ。
2011-06-25 20:21:40![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
忍び寄る気配と憂う眼差しを察したか、薄っすらと目が開き、焦点の合わぬ双眸が緩慢にこちらを見上げる。「夢を見た」心臓が跳ねる。「どんな夢だ」平静を装いつつ尋ね返す。少し躊躇う素振りを見せてから、眼鏡をかけ直して呟く。「君が出てきた」「それだけか」「それだけとはなんだ」
2011-06-25 20:24:23![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「いや……何事もなければそれでいい。起こしてすまなかった」言葉少なく詫びて踵を返しかけ、捲れた袖口から覗く手首の痣に驚く。「誰にやられた!?」思わず手を掴んで問い質す。「誰でもない。しいていえば『夢』だ」「夢?」狼狽走るサムライを冷静沈着に見返し、淡々と自己分析を始める。
2011-06-25 20:27:27![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「こんな心理学実験がある。被験者の手に熱湯だと思い込ませたポットの中身をかけた際火傷の症状を呈したが、その中身はただの水だった。人間の自己暗示力がいかに強く心身に影響を及ぼすかという事例だ。わかりやすく言えば夢のフィードバックだな」「直、お前は」手首の痣を無意識になで、呟く。
2011-06-25 20:31:20![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
眼鏡越しの瞳が複雑な色を宿して揺れる。「君が夢に出てきた」夢と夢が繋がることなどあるのだろうか。「……だから痣だけですんだ」今度こそ、直を守れたのだろうか。
2011-06-25 20:34:30![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
片膝屈し瞠目、内出血のあとも痛々しい痣に口づける。「間に合ったのか、俺は」「ああ」「よかった」湿った吐息に混じって本音が零れる。「本当によかった」乾いたくちびるで痣をなぞられるくすぐったさに顔を歪め身を引くのを許さず、荒れた両手で手を包み額に持っていく。
2011-06-25 20:40:23