1Q69 BOOK 1

本作は、「1Q84」と「69」を合体させるつもりでTwitter上で書き始めたパラレルワールド小説。 ですので、村上春樹さん、村上龍さんの小説とは全く関係ありませんし、実在の人物や団体、実在の出来事とも一切関係ありません。 2011年6月9日、Twitter上で「6月9日はロックの日」というツイートが流れていて、たまたま同日、村上春樹氏がスペインのカタルーニャ国際賞を授賞したニュースが入ってきた。「69」と言えば村上龍。村上春樹と言えば「1Q84」。 だったら二つ合体させて「1Q69」という小説があれば面白いかな?とTwitterで発言したところ、是非書いてみろと唆されて何も考えずに書き始めてしまった。 続きを読む
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新田靖浩 @neo_mx

明日は7月4日、アメリカの独立記念日。日本でも基地がある街ではイベントがある。6月9日からたまたま書き始めた #1Q69 エンディングが7月4日なので今晩から再始動の予定なり。

2011-07-03 22:23:15
新田靖浩 @neo_mx

#1Q69」、続きを書こうと思ってハッシュタグで検索したら、遡れない。あ、保存してないぞ、と焦った。下書きなしにカフェでiPhone片手に適当に書いていたので手元に原稿がないぞ。ちょっと冷静に考えた。Twilogがあるじゃないか!

2011-07-04 02:25:04
新田靖浩 @neo_mx

ということで、念のために6月9日から14日までに書いた #1Q69 の58ツイートをTogetterにコピペしました。もちろん、TwilogやTogetterがダウンしても大丈夫なようにPCにも保存。

2011-07-04 02:27:12
新田靖浩 @neo_mx

これまでのお話はTogetterのまとめをみてください。あと、とりあえずのエンディングを1974年の7月4日という設定にしてあるので、7月4日までに書き終えようと思ってましたが、多分無理です。少しずつ書いていきます。

2011-07-04 02:32:41

1Q69 01:村上龍が佐世保北高で学生運動もどきの活動をしていたその年に、俊介は小学校に入学した。俊介の悲運の始まりは、母親がその小学校の教師だったことだ。

1Q69 02:母親が同じ学校にいて不便と言うか不憫なのは、学校の先生全員が自分のことを知っている。俊介の学校での振る舞いが漏れなく母親に伝えられていた。母親が帰宅して「今日はどがんやったと?」ときかれて、俊介は適当に思い付いた出来事を話す。勿論、担任の先生に叱られたことを除いて。

1Q69 03:俊介は肝心なその日最大の事件については話をしない。母親は「嘘ついとらんね?嘘ばついたらいけんとよ」と俊介に迫る。俊介的には、学校で担任に叱られてそこで既に反省してるので、その問題は過去の話なのに…。

1Q69 04:俊介の家からは海が見えた。藤原町、緑坂の斜面に建ったオレンジ色の屋根の一戸建てで佐世保湾を挟んで弓張岳が見える。佐世保湾は、佐世保重工に入る船、海上自衛隊の船、漁船、そして最も偉そうな米海軍の船が行き交う。父親の双眼鏡を使って見ると甲板の船員の動きまでよく見える。

1Q69 05:俊介の家からは遠くに福石町の競輪場も見えた。風向きによってはチャンチャンチャン〜と鐘の音が聞こえてきた。俊介がギャンブルという概念が分かるようになったのは小学校2年生の時で、それまでは自転車がグルグル走ってる意味が分からなかった。

1Q69 06:俊介にとって福石町は外国だった。国道35号線を超えて大宮町や福石町に行くのは一種の冒険だった。小学校低学年まで俊介のテリトリーは、上は木風小学校で下は藤原アパートの内側に限られていた。

1Q69 07:俊介の母親はガチガチの日教組だった。家には「教え子を再び戦場におくるな」というスローガンが入ったポスターやHBの鉛筆があった。母親は、師範学校の時に原爆にあって被爆している。と言っても大村だったので、長崎から運ばれてくる被爆者の手当てに駆り出された間接被爆だった。

1Q69 08:俊介の父親は五島列島の一番北にある宇久島の出で、佐世保工業高校の鋳金科、今で言うところの金属科の教師をしていた。日教組と別に高教組という組織があるそうだが、父親はそれほど熱心な活動家ではなかった。

1Q69 09:俊介は小学校に入ると、公民館で毎週土曜日にある絵画教室に入った。水彩画なのに絵の具を厚塗りして、闇夜のカラスという作品を描いて美術教師を唸らせて、悦に入っていたりした。

1Q69 10:ある日、NHKの番組にその美術教師が出ていてコメントしていた。佐世保の子供の絵は色彩がない、米軍基地の影響が強い。俊介は子供心にも、ちょっと論理の飛躍があると思っていた。スケッチ大会を海上自衛隊の基地の中でやれば、必然的に使う色はグレーになる。

1Q69 11:当時の学校の先生達は、過度に戦争を忌避していた。特に佐世保は日本海軍の基地があって、帰らぬ人となった青年達をたくさん見てきた。俊介は思っていた。もし戦争に勝っていたら、どうなっていたんだろう?

1Q69 12:もし、戦争に勝っていたら…。IF〜, HOW? 俊介は夜な夜な考えていた。別に戦争の話に限らず、もし山口百恵と付き合えたらとか、ファンガーファイブのメンバーだったらとか…

1Q69 13:子供の勘違いは凄まじい。「神のみぞ知る」という言葉を俊介はずっと「神の味噌汁」だと思っていた。俊介は、典型的な多動性障害を持った子供だった。

1Q69 14:俊介は小1の時に、算数の授業を一週間にわたってストップさせた。三角形と四角形の違いにどうしても納得できずに、教師に食い下がっていた。正方形や長方形は、四角形だと理解できたが、台形は三角形の上を切ったのだから三角形だと主張した。とんがっている、すなわち三角だと。

1Q69 15:俊介の多動性障害が治ったのは、小4の時にリトルリーグに入団してからだった。練習場所はニミッツパークの中のリトルリーグ専用の球場。今でもそこは、心の中のフィールド・オブ・ドリームズだ。今から思うと、真夏の練習での冷たい麦茶の味が懐かしい。

1Q69 16:リトルリーグは結構お金がかかった。当時、九州にはリトルリーグのチームは佐世保だけだったので、自動的に九州代表としていろんな大会に遠征することになった。旅費は当然、親の負担。まあ、地方公務員の両親からするとたいした負担ではなかったのかもしれないが。

1Q69 17:リトルリーグに入団したことで俊介の世界は、藤原町から、米軍基地、そして全国へと広がっていった。 それと、米軍基地内の球場で練習するのだが、月に一度米軍の子供チームとの練習試合があった。

1Q69 18:練習もろくにしてない米軍チームに佐世保中央ウィングスが負ける訳がない。アメリカってたいしたことない。 俊介にとってのアメリカのイメージは、こうして形作られていった。客観的に見ると、かなり曲がった理解の仕方だったかもしれないが。

1Q69 19:リトルリーグの練習の帰り道、俊介は米兵も立ち寄る喫茶店でハンバーガーを食べるのが日課になった。その喫茶店は同じリトルリーグのチームメイトの父親が経営していた。

1Q69 20:店内では米軍向けのラジオ放送のFEN(現在のAFN)がかかっていて、新聞もStars & Stripesが置かれていて、俊介はいつの間にかアメリカ人になった気分になっていた。 俊介の日常には常にアメリカがあり、アメリカがあることへの疑問符も付き纏っていた。

1Q69 21:ハンバーガーについて余談… 今では佐世保バーガーというブランドが付いて商品化されているが、その当時、ハンバーガーは普通にハンバーガーだった。それに大きさも多少大きめだけど、今の商品化された佐世保バーガーみたいに馬鹿でかくはなかった。

1Q69 22:俊介が小5の時に事件が起きた。1972年の日中国交回復以降、中国残留孤児の帰国が始まっていたが、俊介が通う木風小学校に、残留孤児二世の李围明(リ・ウエミン)が転入してきた。

1Q69 23:ウエミンは最初、全く日本語ができなかったので、特殊学級に入れられた。俊介は以前から特殊学級には遊びに行っていたので、早速、ウエミンを見に行った。特殊学級とは、精神障害や自閉症の子供達が集められたクラスのこと。

1Q69 24:俊介が特殊学級に出入りしていたのは、多動性障害のせいではない。特殊学級にはクーラーもあったし、冬にはストーブもある。お菓子も置いてある。俊介は特殊学級の生徒たちとも仲良くしていた。一番まともだったし、そこでリーダーシップを発揮していた。

1Q69 25:事件はそこで起きた。ウエミンが特殊学級にいることで、生徒たちが「知恵遅れの中国人」と馬鹿にしたことに怒ったウエミンが金属バットで日本人3人を僕打して病院送りにしてしまった。

1Q69 26:その事件は新聞にも載ったし、事態を収拾するために緊急父兄会も開かれた。警察も現場検証のために来た。ウエミンはそれから1カ月自主的に自宅謹慎することになった。俊介は毎日学校が終わると、ウエミンの家に遊びに行った。

1Q69 27:ウエミンの家は、日当たりの悪い古いアパートの一階だった。残留孤児一世の母親との二人暮らしで、その生活は貧しかった。きっと日本政府からの生活保護で暮らしていたのだろう。それと、日本語ができない母親をウエミンはよく世話していた。

1Q69 28:ウエミンの母親は、ウエミンが起こした事件をひどく心配していた。「心配せんでよかと。悪かとは遠藤たちたい」と俊介は説明し、まだたいして日本語ができないウエミンが中国語で通訳する。母親は「帰ってこんかったらよかった」とウエミンを介して言ってきた。

1Q69 29:事件はなかなか終息しなかった。日教組が大勢を占める職員会は、最初に言葉の暴力があったのが原因として収拾を図ろうとしたが、反共、反日教組の立場にある右翼の街宣車が校門前に連日横付けして、日教組批判、中共批判のアジテーションを始め、校門を挟んで教師たちと対峙した。

1Q69 30:今から振り返って考えても、小学校の校門前でアジ演説をする右翼もひどいものだ。「確かにウエミン君は悪くない。しかし、今回の事件を有耶無耶にする日教組の姿勢は許しがたい。そもそも中共と国交を持つこと自体間違っている」。最早、ウエミンの話は関係なくなっている。

1Q69 31:生徒たちは集団登校、集団下校することになった。休み時間に校庭で遊ぶことも禁止された。まったくもって迷惑な話だ。この事件は全国ニュースにもなった。さすがにマスコミも市民も怒ったし、市長が乗り出して右翼街宣車は学校近くには入れなくなった。

1Q69 32:事件は終息したように見えたが、小学生たちの世界は全く変わってしまった。子供なので、もちろん右翼も左翼も、反共も反米も、君が代問題も日教組も知らなかった。それが、この事件をきっかけに、大人の世界が子供の世界に割り込んできた。

1Q69 33:俊介は地元佐世保が舞台になった1968年1月のエンタープライズ事件、1972年の浅間山荘事件についてもテレビで見て知っていた。だが、今回のウエミン事件は、まったく違っていた。事件の中心のウエミンの一番の親友だったし、全国区のニュースの中心に俊介はいた。

1Q69 34:少なくとも俊介自身は、自分が事件の中心にいると思ったし、世界の中心にいる気になっていた。俊介が元々持っていた癖、「もし、○○だったら…」と勝手に空想することがエスカレートしていった。

1Q69 35:俊介は行動を起こした。まず、自宅近くの竹藪の奥に基地を作り始めた。これにはウエミンや、ウエミンに僕打された遠藤、堤、力石の三人も参加した。ウエミン事件の当事者たちが全員そろった。殴ったウエミンと殴られた三人が合流するのも変な話だが、元々子供の喧嘩だったのだ。

1Q69 36:竹藪の中に基地を作るのは、子供の遊びとしてはよくある話だが、俊介は真剣にアメリカでもない、当時アメリカと戦争していたベトナムでもない、中共でもない、日本でもない国を作ろうと考えていた。 基地作りは楽しかった。メンバー5人の家からいろんなものが持ち込まれた。

1Q69 37:基地作りは何度か頓挫した。自宅から物がなくなるので、当然親たちにバレる。遠藤が親に後をつけられて基地を発見されて一時は撤収を余儀なくされた。ここまでは子供の遊びだった。1年後、基地作りに飽きた俊介たちは次の行動に出た。ウエミン事件の第二幕がこうして始まった。

1Q69 38:俊介の「もし、○○だったら…」という空想は、いつも最後には「もし、アメリカに負けてなかったら…」という空想に帰結していた。俊介はリトルリーグの練習場が米軍基地内にあったことから、基地の内部にある程度詳しかったし、メンバーの力石もリトルリーグのチームメートだった。

1Q69 39:竹藪の中の基地を放棄した5人は、力石の父親が経営する喫茶店の二階に集まるようになった。そう、米軍基地の側の米兵がよく利用する喫茶店だ。もうこの頃にはウエミンも日本語が普通にできるようになっていて、特殊学級から普通クラスに移っていた。

1Q69 40:力石の父親が経営する喫茶店は、新しくサンブラザアーケードと名付けられた三ヶ町商店街の外れにあった。ウエミンを含めた5人は、日本一長い直線の四ヶ町商店街と三ヶ町アーケードを毎日歩いた。全長960メートルもある。

1Q69 41:5人は小学6年生になったばかりだったが一際目立っていた。遠藤はいわゆる巨人症のようで180センチを超えていたし、ウエミンも実際には4つ年上で本来なら高校生の年なので大きかった。堤も大きい方で、俊介と力石だけ普通の小学生に見えた。

1Q69 42:5人の四ヶ町、三ヶ町アーケードを歩く様はまるでヤクザの地回りのようだった。と言っても可愛いものだったが、本人たちはその気でいた。背が低い力石と俊介はリトルリーグで使う金属バットを持っていて170センチを超えるウエミンと堤、巨人症の遠藤が左右を固めていた。

1Q69 43:5人はよく不良中学生のグループに絡まれた。小学生の癖に態度がでかいという理由だった。いつも巨人症の遠藤が立ちはだかって睨みをきかせた。本格的な揉め事には至らなかった。遠藤もいるし、金属バット僕打事件のウエミンもいる。背の低い力石も口は立った。

1Q69 44:不良中学生に絡まれても、俊介は何もする必要がなかった。最強のメンバーに守られていた。小学生が中学生に道を開けさせるのは心地よかった。本当はドキドキしているのだが、これからアメリカと戦争をする気でいる俊介は少しずつ度胸をつけていく自分を冷静に見ていた。

1Q69 45:力石は頭が良かった。親も米兵相手の喫茶店を経営していて裕福だった。俊介は力石の家で初めてピザを食べたし、グラタンも食べた。タバスコが辛いということも知った。その力石の部屋が作戦基地になった。物に不自由することもなかったし、力石の母親の料理も美味しかった。

1Q69 46:作戦の決行日は、7月4日に決まった。米国の独立記念日で、その日は基地の一部が市民にも開放されて、花火大会もある。そこで何かをやろうという作戦だ。と言っても、「アメリカと戦争する」ということ以外には何も決まっていなかった。

1Q69 47:「1974年7月4日ってカッコよかたい」と力石は嬉しそうに言う。「そいに今年は建国200年やけん、ちょうどよか」と言われても俊介は「そうね」と答えるだけだ。俊介がアメリカの歴史を知る訳がない。

1Q69 48:その後、堤が「建国宣言が1776年だから二百周年は今年じゃなく来年だ」とか言い出して、「今年だ」、「再来年だ」とか、力石とやり合っている。最初からアメリカの歴史に興味がない遠藤とウエミン、そして俊介の三人はもくもくとピザを食べ続けた。

1Q69 49:結論は敵国の歴史はどうでもよくて、1974年7月4日に意味があるということになった。力石も堤との議論が面倒臭くなったらしい。「俊介、それでよかね?」と力石。「よかっちゃなかと」。一応、俊介が言い出しっぺなので、自然と最終意思決定者になっていた。

1Q69 50:俊介の頭には具体的な作戦のイメージはない。浅間山荘事件のように、米軍基地のどこかに立て篭もるくらいのことしか思いつかなかった。同時に、それが悲惨な結末を迎えることも分かっていた。早くも行き詰まっていた。戦争って難しいんだと漠然と思いながら俊介は眠りについた。

1Q69 51:1974年6月某日、俊介、ウエミン、力石、遠藤、堤の5人は、7月4日に実行日を定めた米国を相手とした戦争の作戦会議のため、三ヶ町の外れにある力石の父親の喫茶店の二階に集まっていた。

1Q69 52:まず力石が口火を切った。「もう一ヶ月なかとよ。何ばすっと?どげんすっと?」。俊介は答えに窮した。俊介とて今のところノープランなのだ。米軍基地内の一施設を占拠して立て篭もっても、結果は浅間山荘事件と同じにしかならない。

1Q69 53:ここで、これまでずっと沈黙していたウエミンが突然発言した。「FENの放送局ば押さえよう。放送局ば押さえれば、オイ達の主張ば流すことができるやろ?」。1年前には日本語もまともにできず特殊学級にいた中国残留孤児二世のウエミンだけど、実は頭いいんだ。俊介は感心した。

1Q69 54:遠藤以外の3人はウエミンの案に賛成した。遠藤は身長180センチの体格だけが取り柄で、物を考える能力がないというか、本人にその気がない。リトルリーグの練習で米軍基地に出入りしている力石が米軍基地の地図を取り出して、机の上に開いた。

1Q69 55:俊介には悩みがあった。事件を起こして、地方公務員である両親に迷惑がかかることはできれば避けたかった。放送局の占拠だったら、学校の放送部を勝手に使ったのと同じで、子供のイタズラとして許されるのではと考えた。限定された戦争で勝利して短期撤退するしかない。

1Q69 56:作戦会議は未明まで続いた。7月4日はアメリカの独立記念日で、基地が一般市民にも開放される。花火が上がっているどさくさに紛れて、FENの放送局に進入し、占拠する。作戦は決まった。占拠するための武器についても話し合われた。

1Q69 57:武器の調達は堤が担当した。催涙スプレー、スタンガン、クロロフォルム、ロープ、ガムテープを購入した。その軍資金は力石が親からくすねてきた。遠藤とウエミン、残り3人の二手に分かれて、戦闘のシミュレーションを何度も繰り返した。

1Q69 58:1974年7月4日、正に第2次ウエミン事件が起きようとしていた。1年前の第1次ウエミン事件はあくまでも偶発的な事故だったが、今回は違う。しかし、ウエミンを含む同じ小学校の生徒5人が起こした事件であり、マスコミは第2次ウエミン事件として取り上げることになる。