平林久和自伝ツイート

HisakazuHが送る自伝ツイート
1
前へ 1 ・・ 4 5
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

こんな出来事が家庭内で起きれば、文学の力などと言っていた自分がバカバカしくなる。

2011-07-17 14:58:25
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

太宰治という病を治すのは簡単だ。貧困になればいい。転機は高校1年生の時に訪れた。父の会社が倒産した。それまでしていた贅沢ができなくなった。運転手付きで会社に通っていた父だったが、運転手も行く会社もなくなった。

2011-07-17 14:58:12
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

この小説は自分のことを題材にして書いたのではないか、と思ったほどだ。もちろん、そんなことはない。では、なぜそんな書物が目の前に存在するのか。文学の力だ。その力に魅了され、太宰治に限らず、学校の勉強などせず、ただ本ばかりを読む中学時代を過ごす。

2011-07-17 14:57:23
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

私は、学校が終わると母の実家である旅館に帰っていた。私を甘やかす叔母や、当時の言葉でいえば女中さんたちが食べ物を黙ってでも運んできてくれる。たとえそれが口に合わなくても「おいしい」と喜ぶ演技をするのも、自ら道化師と名乗る『人間失格』の主人公にそっくりだ。

2011-07-17 14:56:52
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

不良少年は暴れることに飽きて、中学生になると文学少年になった。以前にも書いたが太宰治にめぐり合い、内向的な少年になっていく。『人間失格』の冒頭にある、主人公が空腹を知らない……というくだりは、まるで自分のことのようだった。⇒http://bit.ly/5yFJue

2011-07-17 14:56:11
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

しばらく休んだ後、学校に復帰したのだが、その後のことは不思議と覚えていない。ただ、さすがに悪いことをしたと思い、授業中のデモごっこはやめた。

2011-07-17 14:54:37
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

先生は鬼の形相で私を怒った。しかし私はやめない。私と先生が、まさに闘争を繰り返すうち、先生が学校に来なくなった。先生が登校拒否をしてしまったのだ。

2011-07-17 14:54:14
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

6年生の先生の最も嫌いなことは、左翼的行動であることを見抜いた。当時は成田闘争や安保条約反対など、過激派がデモ行進するのは、子どもでもテレビで見る光景だった。私はわざわざプラカードまでつくって、デモの先頭に立ち「授業、反対!」と叫んで教室をうねり歩いた。

2011-07-17 14:53:42
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

5年生の時の担任が好きだった私は、6年生の時の担任が嫌いになった。反抗した。自ら先導して、今でいう学級崩壊状態をつくろうとした。だが、学校のガラスを割ったりはしない。私は知能犯だった。

2011-07-17 14:53:00
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

私は概念も言葉も知らなかったが、このふたりの教師の違いの根底にあるのは「思想」であることを漠然と感じていた。のちに私が、「思想」という語を他者よりも頻繁に使うのは、ふたりの先生の影響である。「神は細部に宿る」という言葉に出会った時、真っ先に連想したのは、ふたりの先生だった。

2011-07-17 14:51:45
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

授業中に「天皇陛下」と口に出すときには、「恐れ多くも畏くも」と前置きし、気をつけの姿勢するものだったとも言った。私はその時の、背筋をシャンと伸ばす先生の姿を今でも忘れていない。

2011-07-17 14:51:07
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

6年生になった。その時の担任の先生は、授業中に昔話ばかりをした。教育勅語の話もした。戦時中の教室には天皇陛下の写真があって、それを「御真影」と呼ぶ、ということなども語った。

2011-07-17 14:50:41
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

だが、私は先生の自宅で、今まで見たことのない新聞を見た。「赤旗」だ。のちに知ることになるのだが、先生は日教組の幹部で有名な人だった。

2011-07-17 14:49:47
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

5年生の時の担任の先生が好きだった。授業中に熱意が伝わり、ユーモアがあり、教え方に工夫があるのが子どもながらにわかった。その先生は自宅に生徒を招いて、料理をご馳走してくれることもあった。泊まりがけで、先生と触れ合い、学校では教えてくれない話を夜中までしてくれる。

2011-07-17 14:49:19
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

小学校時代、学校の成績はきわめて優秀だった。毎年、学級委員をつとめる優等生だった。高学年になると異変が起きる。早熟だった私は、同学年の誰よりも早く反抗期が訪れるのだ。

2011-07-17 14:48:50
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

私の逃れようのない二面性は、異なる育ち方をした両親に起因している。私は母から優しさを、父から強さを学んだ。しかし、裏返せば母から甘えた精神と、父から荒ぶる精神を引き継いだ、ともいえる。

2011-07-17 14:48:12
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

父の血脈も悪くない。今でも人形町にある明治座、ミシュランにも載っている料亭・濱田屋の親戚筋にあたる。だが、わけあって湯河原町の隣の港町、真鶴(まなづる)にやってきて船乗りになる。裸一貫からのし上がって、土建屋の経営者になった。華奢な母とは反対の、いかつい体躯の父だった。

2011-07-17 14:47:40
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH

私は神奈川県の西端、湯河原町で生まれた。温泉で有名な町だ。母は旅館を営む旧家の娘だった。戦時中、祖父は旅館以外にも飛行機部品をつくる工場を経営しており、戦前はずいぶんと羽振りが良かったらしい。

2011-07-17 14:46:47
前へ 1 ・・ 4 5