- cornelius0321
- 5242
- 0
- 0
- 0
きのう『蔵の中』の原作を再読し、映画(高林陽一監督、1981年)を再見した。映画製作にあたって、高林監督が採用したのは「遊び」の視点である。原作にはない映画のキャッチコピーが、後白河法皇編纂の『梁塵秘抄』に出てくる今様の一節、「遊びをせんとや生まれけむ」である。
2011-05-28 21:34:51映画のオープニングでもこの梁塵秘抄を桃山晴衣が、独特の節回しで歌っている。なんでも本当に平安時代の歌謡を現代によみがえらせる音楽活動をしている人らしいので、それが聴けること自体は貴重である。
2011-05-28 21:34:42肺結核のため旧家の蔵の中でひっそり暮らす蕗谷小雪(松原留美子)とその弟の笛二(山中康仁)が織りなす耽美の世界が映画のテーマだ。
2011-05-28 21:34:29原作では東京小石川の旧家の蔵の中が舞台だが、昭和初期の小石川の雰囲気がもう存在しなかったのだろう。映画では舞台は京都になっている。
2011-05-28 21:34:19「遊びをせんとや生まれけむ」は「遊ぶために生まれてきたのだろうか」という意味だ。蔵の中でしか生きられない小雪にとっては、笛二と遊ぶことしか楽しみはない。笛二にとっても、時折見せる姉の無理難題に応じたり、磯貝の生活を「覗く」ことも全てが「遊び」に他ならない。
2011-05-28 21:34:09この映画、松原留美子が「本当はどんな人なのか」ばかりが話題にされ、映画を見た人の感想も「松原留美子が綺麗」とか「気持ち悪い」とか「どう見ても○○○には見えない」といったものばかりが目につくが、原作の小雪は聾唖者であるので、松原留美子に「喋らせない」のは、ある意味正解である。
2011-05-28 21:33:57原作では笛二が化粧をして自分の顔を見たときに「おそろしいほど」「姉の小雪に似ている」(角川文庫、123ページ)という記述がある。だから男の笛二が女の化粧をしたときの顔に、小雪を似せる必要があるのだ。
2011-05-28 21:29:17あくまでも笛二の視点に立った上でのキャスティングだということを考慮しなければ、松原留美子を起用した意味を見誤ってしまう。「小雪が男装したら笛二に似ている」ではないのだ。逆である。
2011-05-28 21:29:06その意味で、他の女優ではなく松原留美子を選んだ時点で、他の女優たちは松原留美子に「敗北」したのである。綺麗とか綺麗でないとかの問題ではない。
2011-05-28 21:28:51この映画、「名前を持つ人」と「名前を持たぬ人」で構成されている。名前を持つのは、笛二・小雪・磯貝・お静、持たないのは蕗谷の婆や・笛二たちの親である。原作では他にも名前を持つ人が二、三人いるが、話の本筋には入らない人たちである。
2011-05-28 21:28:39「名前を持つキャラクター」と「名前を持たないキャラクター」が出てくるので思い出すのは、「トムとジェリー」である。「トムとジェリー」には主人公の猫とネズミ以外は、ほとんど出てこない。トムの世話をする黒人のおばさんですら、足しか出てこない。
2011-05-28 21:28:28「蔵の中」と「トムとジェリー」で、名前を持つキャラクターが何をするかというと、「仲良くケンカ」するのである。小雪に針で刺青されようと、笛二は姉がいる蔵から決して離れようとはしない。磯貝とお静の関係も、牛鍋を囲みながら所帯を持つだの別れるだの、愛欲まみれの「痴話ゲンカ」である。
2011-05-28 21:28:17ただし「トムとジェリー」とは異なり、「蔵の中」では小雪と笛二、そして笛二の妄想の中の磯貝とお静の「ケンカ」が悲劇的で破滅的な結末を迎える。
2011-05-28 21:28:07山中康仁の演技に難があると見る人もいるだろうが、昭和初期の陰鬱な雰囲気を出せる映画を製作できるのは1980年代初めまでが限界だろうということを考えれば、この映画が一連の横溝ブームの最後を飾る作品になったことには、それなりの意義があるだろう。<この話題終わり>
2011-05-28 21:27:54