茂木健一郎さんの「贅沢(ラグジュアリー)」

脳科学者・茂木健一郎(@kenichiromigi)さんの7月29日の連続ツイート。
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茂木健一郎 @kenichiromogi

「連続ツイート」をお届けします。文章は、その場で組み立てながら即興的に書いています! 今朝は、お餅と、パセリと、七輪について。

2011-07-29 07:20:42
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(1)ラグジュアリー(贅沢)とは何だろうか? 1980年代は、田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』で幕を開けた。バブルとその崩壊に向けての日本においては、「記号」としてのブランドが消費された。高いもの、希少なものが人々の羨望を集め、自負心をくすぐったのである。

2011-07-29 07:22:09
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(2)バブルが崩壊し、人々が成熟すると、体験の質(クオリア)が基準となった。他人に見せつけなくても、ブランドでなくてもいい。「今、ここ」が心地よいこと。お気に入りの店で、ひっそりと誰にも知られずに美味しいものを食べる。値段は関係ない。ただ、心地よい時間があればいい。

2011-07-29 07:24:04
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(3)白洲正子さんが、自分の感性を基準に良いものを見つけていったように(『日月山水図』の「発見」はその見事な事例である)、自分基準の「ぜいたく」とは、ブランドや価格で決まるものではない。生命の直覚だけが、ぜいたくなものを映し出す。

2011-07-29 07:25:56
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(4)「贅沢」(Luxury)とはなんだろうか。それは、かけ流しの温泉のように、時々刻々あふれ出ることである。感覚や生命が、受け止めることのできる以上の何かが自分を通り過ぎ、あふれ出ていく。ブランドとは関係がないし、お金を出せば手に入るものでもない。

2011-07-29 07:28:00
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(5)都会の高価なレストランで食事をすることが贅沢なのではない。子どもの頃、年末に餅つきをして、近所の人たちと一緒に食べた。つきたての餅を、ダイコンおろしで絡めたり、あんこ餅にしたり。あの頃は両親も若くて元気だった。あの時間こそが贅沢。もう、二度と戻ってこない。

2011-07-29 07:29:40
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(6)母親が庭にパセリを植えていて、食事の時に、「ちょっと取ってきて」と言われて抜きに行った。ポテトサラダの横に、そっと添えたパセリの苦味と香り。あの力強い生命の手応えこそが、レストランで出るどんな高価な食材よりも、よほど贅沢に感じられる。

2011-07-29 07:31:01
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(7)祖父母が健在の頃、明治の古い人たちだったから、七輪で餅を焼いたり、海苔を焼いたりして醤油につけて食べた。大相撲を見ながら、ゆったりとした時間を過ごした。冷暖房完備の家で電子レンジでチンするよりも、どれほど贅沢な時間だったことだろう。

2011-07-29 07:32:25
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(8)ブランドよりも、価格よりも、内面の心地よさを志向する人が増えている。マーケットで宣伝に踊らされるのではなく、自分の感性で選びとる。茶道では、土塊から作った器を何百年も大切に使う。贅沢は、本当は自転車操業の消費から程遠いところにある。

2011-07-29 07:33:48
茂木健一郎 @kenichiromogi

ぜた(9)日本は低成長時代だけれども、ブランド消費の狂騒に背を向けさえすれば、贅沢はいくらでもある。キャンプファイヤーで、小枝の先にマシュマロを刺して溶かして食べたのは、楽しかったな。自分の感性を磨いていると、きっと、時代や世界が後から追いついてくるよ。

2011-07-29 07:35:40
茂木健一郎 @kenichiromogi

以上、「贅沢」(ラグジュアリー)についての連続ツイートでした。

2011-07-29 07:36:03