- Tdr_moeguti4065
- 18071
- 75
- 3
- 3
@ryuta06444330 大阪夏の陣の折の大阪城内に籠もった民衆に対する略奪、虐殺はよく指摘されますが、アレは城主としての秀頼が、戦の責任を取って正規に降伏しなかったことで起こった事態ですね。本来なら自身の切腹と引き換えに兵民の助命を要求すべきでした
2021-04-09 19:33:52@1059kanri @Heinkel100 教授が2.3回大坂城に登城したのは4.5回ぐらいですから。家康と共に色々な有識者から教授を受けていた秀忠には及びませんね
2021-04-09 21:16:28@Tdr_moeguti4065 @Heinkel100 駿府記とか見ると家康はもう、鷹狩をしていない時はほぼ毎日何らかの教授を受けている感じですね。あの知識欲は本当に凄まじいと思います。
2021-04-09 21:30:19木村展子先生「豊臣秀頼の作事体制について」 秀頼期の寺社再興についての論文。豊臣秀頼の作事組織には限界があったと指摘がある twitter.com/syounennoomoid…
2021-04-09 21:43:09CiNii 論文 - 「豊臣秀頼の作事体制について」 ci.nii.ac.jp/naid/110004655… #CiNii
2021-04-07 20:14:16秀吉作事組織は関ヶ原後に事実上解体し、秀頼の寺社再興は豊臣派遣の大工と地元大工が共同で作業をする体制 名目上の統括者は片桐だが御大工頭が存在せず明確な上下がない並列関係、大規模造営の際に全体を統括する専門家がいない 小規模の作事では地元大工が全て担当し豊臣家が関与しない事例も
2021-04-09 21:44:39@1059kanri @Heinkel100 駿府の後は江戸にも入府しているようなので秀忠も教授を受けていたようですね。あの父子はホント凄いです。
2021-04-09 21:47:26方広寺作事を徳川家臣の中井正清が担当したのは秀頼の組織には大規模造営に不可欠な編成能力を持つ人物が存在しなかったから また広域な動員と調達をする力を喪失したので徳川家の力を借りる必要があったと 秀頼作事組織は個別の棟梁が担当するので彫刻建築の多様性を生んだ利点も同時に指摘あり
2021-04-09 21:49:41秀頼の作事組織に見られる欠点は、関ヶ原後の大坂城内政治組織にも同様の欠点が挙げられそう 秀吉個人の力と信頼で成り立っていたので死後と関ヶ原により事実上崩壊 一度崩壊したので秀頼単独での統括は困難で地元勢や徳川の力を借り求心力が減ると
2021-04-09 22:01:09当主単独での組織再編は他家でも困難で、毛利家なども江戸幕府の権威や周辺の大名家の協力を得て時間をかけ成し遂げている 徳川の屈服が出来なかった秀頼には、彼個人がどれほど有能でも難しかったのだろうと思う 個人的には安易に個人の無能さに帰結させるのには反対。秀頼の状況なら無理よね
2021-04-09 22:05:47秀頼が船橋秀賢から教わっていたのは確かだけど、家康のように足利学校の閑室元佶や貴族の山科言経他から連続して話を聞く勉強熱心な面は見られない。(徳川家康が好学過ぎるのだろうが) 秀頼と比較するなら秀忠の方が適切かな。秀忠も在京中は言経とよく話していて元佶の講義も受けてる。
2021-04-10 10:38:52もはや負け戦となりつつあった時から、お抱えの浪人衆が略奪とかにはしって無法地帯化したからでしたっけ? twitter.com/1059kanri/stat…
2021-04-10 10:49:11大坂の陣の頃、秀頼はまだ若造なので という意見があるので twitter.com/Tdr_moeguti406…
2021-04-10 15:29:13秀頼死去時ー22.3歳 内政・戦等なんの実績もなし 信雄 -22.3歳 本能寺の前年?第二次天正伊賀の乱 氏眞 ー22.3歳 桶狭間前後 家康 -22.3歳 三河平定真っ最中、徳川改姓前
2017-08-30 11:18:22最後まで大坂に残った人々に関しては、幕府軍からは「庶民」とは認識されていなかったフシもあるね。 >RT 秀頼が敗軍の将として責任を果たさなかった。逃げ場となりうる寺は前線になったり、大坂方に焼き払われた。避難勧告がそもそも出されていない。などの事情が重なった結果だったわけだ
2021-04-10 15:46:05