2021.04.11 青天を衝け(9)「栄一と桜田門外の変」放送後の桐野作人先生による解説ツイート

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桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河「青天を衝け」第9回。いよいよ安政の大獄と桜田門外の変が勃発。激動の幕末の序曲でした。この問題は安政条約の不勅許調印と将軍継嗣問題が連動していたことが発端ですが、前回、水戸斉昭、一橋慶喜らが井伊大老率いる幕閣から厳しい処分が下されたことが引き金になりました。#青天を衝け

2021-04-11 20:47:55
桐野作人 @kirinosakujin

当時、御三家や親藩の大名は江戸城への登城日が決まっていた。ところが、幕閣の不勅許調印を知った水戸斉昭・家慶父子、尾張慶恕(のち慶勝)らが安政5年(1858)6月24日、揃って登城、井伊直弼らに猛烈に抗議した。ところが、これは登城日以外の不時登城、押しかけ登城だった。#青天を衝け

2021-04-11 20:47:56
桐野作人 @kirinosakujin

なお、松平慶永は御三家より家格が下だったため加われず、登城前に井伊の屋敷を訪れて不勅許調印に抗議したが、井伊は登城の刻限だからと座を立つと、慶永は井伊の袂を取って引き留めようとしたが、井伊はこれを振り切って登城している。一方の慶喜は御三卿同士、田安慶頼と登城した。#青天を衝け

2021-04-11 20:47:56
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜は御三卿の定例の登城日で、決して不時登城ではなかった。慶喜は老中たちに条約調印を朝廷に知らせる使者派遣を決めたか尋ねた。まだ決まっていないことがわかると、慶喜は将軍に相談すると立ち上がったため、あわてた老中たちは慶喜を追いかけて袂にすがって止めるという一幕も。#青天を衝け

2021-04-11 20:47:57
桐野作人 @kirinosakujin

それからほどなくした7月5日、幕閣は不時登城を理由に、斉昭に「急度慎」、慶恕と慶永に「隠居・急度慎」、慶喜に「登城停止」、水戸慶篤に「登城停止」を命じた。その後、孝明天皇の密勅(戊午の密勅)が水戸藩に降ったことがわかると、8月27日、追い打ちをかける処分が下された。#青天を衝け

2021-04-11 20:47:57
桐野作人 @kirinosakujin

幕閣の追加処分で、斉昭は「永蟄居」、慶篤は「差控」、慶喜も「隠居・慎」となった。本日はこの場面だった。慶喜は家臣たちに「不肖の我等、御屋形を汚し候段、幾重にも詫び入れ候」と詫び状を出した。慶喜ときに23歳。若すぎる隠居である。だが、幕閣は次の一橋家の当主を決めなかった。#青天を衝け

2021-04-11 20:47:58
桐野作人 @kirinosakujin

一橋家の次の当主を決めなかったのは、「明屋形」(当主不在で一時断絶)にするつもりでもなさそうだし、ほかに適当な候補者がいなかったのか、はたまた慶喜を処罰する正当な理由がなかったせいか。ドラマでも、慶喜の剛情と呼ばれたが、それは無言の抗議だった。#青天を衝け

2021-04-11 20:47:58
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜は昼でも雨戸を閉めて、ただ2寸(約6センチ)ほどの竹を雨戸の所々に挟んで明かり取りとした。書見も縁側に出ないとできなかった。朝は寝所を離れると、麻上下を着用して、夏の暑さにも沐浴せず、月代も剃らなかったという。のちに慶喜は慶永に「剛情公」と呼ばれるが、その端緒か。#青天を衝け

2021-04-11 20:47:59
桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河「青天を衝け」第9回。謹慎している慶喜に、平岡円四郎が甲府勤番に異動する旨を知らせにきた場面。甲府勤番とは要するに甲府勝手小普請、いわゆる小普請組だから、左遷中の左遷。これも安政の大獄の余波だろう。慶喜が円四郎に大首するなとか、体を湿らせるなと忠告した件。#青天を衝け

2021-04-11 20:53:07
桐野作人 @kirinosakujin

これは父斉昭から伝授された養生法である。斉昭は脚気や慶喜の持病「溜飲」(胸焼け)の原因は水分の摂り過ぎにあるとし、湯茶は日に一口二口くらいにし、渇きを覚えたら烟草で紛らわせろと教えた。慶喜はその養生法を円四郎に知らせたわけだが、現在医学では非常に体に悪いやり方ですな。#青天を衝け

2021-04-11 20:53:08
桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河「青天を衝け」。ドラマでは水戸斉昭の永蟄居とそれに激高する水戸家家臣たちからいきなり桜田門外の変へと飛んだが、その間に変の原因となった重要事件が省略された。「戊午の密勅」降下である。安政5年(1858)8月8日に孝明天皇から水戸藩に与えた秘密の勅諚である。#青天を衝け

2021-04-11 21:07:58
桐野作人 @kirinosakujin

安政条約の不勅許調印を孝明天皇は違勅だと激怒し、事情説明のため、幕閣に御三家か大老のうち1人の上洛を命じた。幕閣では格下の老中間部詮勝を派遣すると返答したため、天皇の怒りは増し、朝幕関係は決裂寸前となった。一方で水戸・福井・薩摩の藩士たちは青蓮院宮や近衛忠煕らに入説。#青天を衝け

2021-04-11 21:07:58
桐野作人 @kirinosakujin

橋本左内や西郷吉兵衛(のち隆盛)らは公家衆への周旋につとめた。京都でも梁川星巌・梅田雲浜らも呼応。こうして8月8日に水戸藩に密勅が降った。内容は、幕府の不勅許調印と水戸・尾張・福井3藩への処罰を攻め、大老以下幕閣は御三家・御三卿・親藩・列藩と評議し、#青天を衝け

2021-04-11 21:07:59
桐野作人 @kirinosakujin

国内治平、公武合体の実をあげ、徳川家を扶けて外夷の侮りを受けぬようにというものだった。密勅は武家伝奏の万里小路公房から水戸藩留守居役の鵜飼吉左衛門の手を経て水戸に届けられた。また密勅の内容を御三家、御三卿、家門以上に隠居に至るまで知らせよとあった。#青天を衝け

2021-04-11 21:07:59
桐野作人 @kirinosakujin

なお、幕閣にも水戸藩への降下から2日後に届けられた。密勅の内容もさることながら、井伊ら幕閣が問題にしたのは、幕府の頭越しに水戸藩に密勅が伝達されたことだった。そのため、水戸藩に勅諚の外部への伝達を禁じ、密勅を幕府に返却するよう命じた。#青天を衝け

2021-04-11 21:08:00
桐野作人 @kirinosakujin

密勅を返却するかどうかで、水戸藩では幕命に従うべきだとする鎮派と、勅命のみを奉じるべしという激派に分裂した。水戸藩では最終的に密勅返上が決定したが、それに不満の激派の一部が脱藩し、井伊を付け狙った。安政の大獄が始まったのは、まさに戊午の密勅降下が原因といえる。#青天を衝け

2021-04-11 21:08:00
桐野作人 @kirinosakujin

大河「青天を衝け」第9回。桜田門外の変はよく知られているが、少しだけ。安政7年(1860)3月3日、上巳の節句(桃の節句)は大雪となった。新暦だと3月24日にあたる。五節句は諸大名が江戸城に総登城する日。井伊直弼も桜田堀に面する上屋敷を午前9時半頃に出立した。#青天を衝け

2021-04-11 22:12:35
桐野作人 @kirinosakujin

井伊家上屋敷から桜田門まではおよそ500メートルと短い。行列は総勢60余名。折からの雪のため雨合羽を嫡子、刀にも雪で濡れないように柄袋をかけて抜刀しにくかった。天候も井伊家に不利だった。写真は井伊家上屋敷跡あたりから見た桜田門、襲撃現場と桜田門。#青天を衝け pic.twitter.com/jJfofVG03E

2021-04-11 22:12:37
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桐野作人 @kirinosakujin

当時は江戸観光が盛んで、地方の武士なども大名家のデータ集である「武鑑」片手に江戸見物していた。水戸浪士など18名は江戸見物のふりをして、外桜田門の道の両側に分かれて待ち構えた。そしてドラマでもあったように、浪士の一人が訴状を掲げて飛び出してきた。駕籠訴である。#青天を衝け

2021-04-11 22:12:38
桐野作人 @kirinosakujin

駕籠訴は越訴(おっそ)なので処罰の対象。護衛の彦根藩士たちが阻止しようとして斬り合いとなった。警固の藩士たちが駕籠から離れた隙に浪士が合図の短銃1発を駕籠に向けて放った。不運にもこの一発が駕籠の中の井伊に命中。腿から腰に抜ける貫通銃創だった。#青天を衝け

2021-04-11 22:12:38
桐野作人 @kirinosakujin

井伊は居合いの達人だったが、この深手のため身動きできなくなった。駕籠に刀を突き入れたのは薩摩浪士の有村次左衛門と水戸浪士の広岡子之次郎だった。井伊は銃創だけでなく刀創も負った。井伊の体を引きずり下ろして首級を挙げたのは有村だった。#青天を衝け

2021-04-11 22:12:38
桐野作人 @kirinosakujin

有村は井伊の首級をもって走ったが、彦根藩士から背後から斬られて頭部に重傷を負い、辰之口にある若年寄の遠藤但馬守の屋敷までたどり着くと、井伊の首級を置いたまま門前で切腹息絶えた。写真は千住小塚原にある処刑された橋本左内、水戸浪士たちの墓と青山墓地にある有村次左衛門の墓。#青天を衝け pic.twitter.com/uzBR67FSo1

2021-04-11 22:12:41
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桐野作人 @kirinosakujin

遠藤家門前に置き去りにされた井伊直弼の首級はどうなったか。幕閣では井伊の死を極秘扱いにしたため、彦根藩では主君の首級としては受け取れず、闘死した供廻の首級としてもらい受けたうえ、途中で買い求めた飯櫃に入れて藩邸に持ち帰ったという。井伊の墓は菩提寺の世田谷豪徳寺にある。#青天を衝け pic.twitter.com/UFbNhIaCN9

2021-04-11 22:12:45
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桐野作人 @kirinosakujin

補足。井伊直弼は大老であり、事実上、当時の日本政府首班だったため、桜田門外の変は世界のニュースとなって流れた。ニューヨークタイムズにも記事が掲載されたが、幕府がその死を隠して負傷しただけだとリリースしたため、記事は暗殺計画は未遂に終わったと誤報する結果になった。#青天を衝け

2021-04-11 22:37:27