『非国民タリエシンの世界』 作者=siraren

後輩のむちゃぶりに応えた作者(23歳男性)の処女短編。
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かじ @siraren

開け放した運転席の窓から、30号線の風が心地よく入ってくる。車は海へ向かっている。「どうして海へ?」ぼくが訊ねると、彼女は泣き腫らしたであろう目を閉じながら「なんとなくよ、さっき会ったばかりの男女が海に行くなんて素敵じゃない」と答えた。車は奇妙な沈黙に支配された。

2011-08-05 15:55:32
かじ @siraren

「私はね、おかえりとただいまの区別がつかないの」沈黙に支配された車内は息絶えた鉄の塊だったが、彼女の声で、微かに息を吹き返した。「親にも叱られたわ。どうして分からないのってね。」僕は一向に変わらない信号の色を気にする体を装いながら、返答に値するであろう言葉を考えていた。

2011-08-05 16:07:00
かじ @siraren

さっき会ったばかりの男女が車内で一体何をしゃべるというのだろう。その上、彼女は喫茶店で泣きっぱなしだったとすると、僕に残された手段は、安易に口を開くことではなくて、黙って話を聞くことしかなかった。信号は目指す海の色に変わり、僕らの前途を祝そうとしているかのようだった。

2011-08-05 16:19:16
かじ @siraren

車は安定した速度を保っている。のどかな田園を過ぎ、やがて民家の集合する地区へ入ると、彼女は左手の薬指に嵌めてある指輪を外した。「ねえ、考えてみて」疲れた人間特有のくぐもった声だが、それは決して不愉快なものではなかった。その声は、救済を求めてさまよう人間の苦しみを帯びていた。

2011-08-05 16:33:16
かじ @siraren

「ただいまとおかえりの区別がつかないくらい何よ。無くて七癖って言うじゃない。些細なことを気にするよりも、もっと大事なことがあるって私は信じてきたの。あなたはどう思う?」車内に射し込む夕陽は彼女が右手の親指と人差し指でつまんでいる指輪を輝かせている。

2011-08-05 16:39:30
かじ @siraren

「ははあ」僕は横断歩道で手を上げて歩く下校中の小学生を見ながら言った。「あなた、おかしな返事をするのね」彼女が微笑んだのが窺えた。「でもね、女性が真剣に話している時に、そんな返事をしちゃだめよ」子供によく言って聞かすかのように注意された。僕は指輪が気になってしょうがなかった。

2011-08-05 16:49:37
かじ @siraren

「でもいいわ、許してあげる。どうせ他のこと考えてたんでしょ」僕は「ははあ」と言いそうになるのを辛うじて抑え、真剣に言葉を紡いだ。

2011-08-05 16:56:50
かじ @siraren

「違うんです。あなたの話は聞いていて、でも、あなたの話は唐突すぎてどう言えばいいのか分からなくて…」紡いだ言葉に嘘はなかった。指輪のことは触れなかっただけだ。「ふうん。ねえ、指輪、気になってたんでしょ」その時僕はエスパーと車内で二人きりになった小説を思い出していた。

2011-08-05 17:01:01
かじ @siraren

「エスパーなんて、この世にいないのよ」僕の戸惑いを見透かしながら彼女は続けた。「いるのはエスパーに近い人だけ。あなたもその内分かるようになるわ。女の子はね、みんな、魔女の弟子なの」「それじゃあ、あなたも魔女の弟子なんですか」

2011-08-05 17:54:17
かじ @siraren

長い列を組んでいた小学生たちは横断歩道を渡り終えようとしていた。彼女は僕の返答を鼻で笑ったけれど、不思議と僕は腹が立たなかった。なぜなら、この女性の話を聞かなかったら、僕は永遠に成長できない気がしたからだ。

2011-08-05 17:59:22
かじ @siraren

「ごめんなさい。気を悪くしたかしら。でもね、誤解しないで。女の子みんなが魔女になるわけではないの。魔女の子を破門になる方法はひとつだけあるわ」影ひとつない横断歩道は夕陽に照らされ暑そうだった。そして僕の右足は鉛のように重かった。

2011-08-05 18:08:04
かじ @siraren

「破門になる方法、それはね、愛する人を見つけること。そして私は、魔女になりたくなかったから、必死に愛する人を探して見つけたわ。でもね、そんなものマヤカシだったの。私は自分でも知らない間に魔女になっていたのよ…」彼女の頬を濡らすものに僕は気が付かないふりをして、車を発進させた。

2011-08-05 18:13:04
かじ @siraren

暑さに悲鳴を上げていたであろう横断歩道を後にして、僕らは南へ向かう。助手席に座る彼女の泣き方は、喫茶店にいた時とは明らかに異なっていて、それは僕の胸を揺さぶっていた。「あの、道の駅があるみたいですよ。寄ってみます?」

2011-08-05 18:30:36
かじ @siraren

僕らは喫煙者だから、車を停めて外で一服すれば、この状況を打破できると思ったのだが、その考えは甘かったと言わざるをえない。。突っ伏して首を横に振る彼女のワンピースの胸元には、刺青が彫ってあった。僕は罪悪感と自分の無力さに苛まれつつ、ハンドルを操作していった。やれやれ。

2011-08-05 18:38:44
かじ @siraren

道はアップダウンが激しく、カーブが多かったせいで、運転している僕でさえ車酔いをしそうだった。エンジン音と泣き声をBGMにしながら、僕らは海にたどり着いた。

2011-08-05 18:41:11
かじ @siraren

役目を終えようとする夕陽は西の山に傾き、昼間は見えなかった月が待ち構えていたかのように光はじめた黄昏時に、僕はエンジンを止めた。防波堤の前にある小さな駐車場には、申し訳程度に照明が灯っていた。「着きました」自分でもぞっとするほどの感情のこもっていない声だった。

2011-08-05 18:49:45
かじ @siraren

顔を上げた彼女は、普通なら見てもいられないような化粧になっていたが、僕はその顔から目を逸らしたくなかった。「ごめん、ちょっとだけ、むこう向いててくれるかな」と彼女は照れながら言った。小柄な彼女には大きすぎるカバンからは、それに反して小さなポーチが出てきた。

2011-08-05 19:01:25
かじ @siraren

運転席から眺める防波堤はつまらなくて、僕は彼女の顔と指輪とカバンとポーチに思いを巡らせていた。「お待たせ」の声を聞いてゆっくりと彼女の方を向いた僕は、彼女の指輪とカバンを海に捨て、新しくそれらをプレゼントすれば、彼女の悪癖は消え、魔女でなくなるはずだと確信していた。<完>

2011-08-05 19:14:28