伊達時宗丸の上杉入嗣に関するいろいろ

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la_cometa_rossa @nagao_uesugi

天文11年12月7日付色部・水原・竹俣・鮎川・荒川・新発田・黒川・五十公野・加地・安田・小河宛伊達晴宗書状案(『新潟県史 資料編』2045号ほか)「其以来は依無差事候、絶音信候条、令啓候、抑時宗殿就上国之儀、去秋門目丹後守為使覚悟之旨申越候き、具可致閑談候哉、已然も如申候、被抛万障、

2021-04-21 17:38:03
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早々御無為肝要存候、然ば被対当方無御余儀之由、其聞候、本懐之至候、兼又当口之様躰可有伝聞候哉、無題目処に懸田三郎構逆意、覃干戈之事、無是非次第候、雖然任筋目、年月之一味中如前々無二被相談之上、於在々所々、至于近日も、度々之合戦得大利候条、悉属本意候、可御心安候、

2021-04-21 17:38:03
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随て上郡山常陸介、山形へ致同心無道之動申間、偏所存之外候、厳寒之時分一入御太儀候共、各以相談彼在城へ御調儀候て、被加対治候はば、専悦候、頼入計候、委曲飯淵八郎左衛門所より可申達候間、不能詳候、恐々、」 この書状案は長尾・上杉氏側の昔の史料集では天文9年に比定されていたのだが、

2021-04-21 17:38:04
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伊達氏側から見て天文11年の文書であるのは間違いないとなると、伊達晴宗は中条弾正忠を除く揚北衆に対し、速やかに和睦して、稙宗方の上郡山常陸介為家の居城を攻めるように求めているから、長尾・上杉氏側の諸書が天文9年と考えてきた揚北衆による中条の鳥坂要害攻めは同11年に行われたようだ。

2021-04-21 17:38:04
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天文9年9月28日付田中兵部少輔宛長尾晴景書状写(『新潟県史 資料編』2076号)「其以来態不申届候間、差越使者候、於其口日夜加世義、殊至于中条度々一戦勝利、併忠信無是非候、定落居不可有程候、弥被抽粉骨簡要候、委細可有彼口上候、恐々謹言、」

2021-04-21 20:03:50
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天文8年11月21日付色部弥三郎勝長宛長尾弥六郎晴景書状(同前1056号)「従伊達為使門目丹後守方上府、中弾前之事、雖被申之候、各へ時宜談合申、於其上可及御返事之由、令挨拶候、依之先日以使者申宣候き、定可為参着候、恐々謹言、」

2021-04-21 20:03:50
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長尾晴景が色部氏の重臣である田中を通じ、中条を攻めている色部勢の奮戦を称え、同じく色部勝長に対しては、伊達家から使者の門目丹後守が到来し、中条についての申し入れがあり、揚北衆と相談したうえで伊達側へ返答するつもりであることを伝えたもので、両書状は天文9年に置くべきなのだろう。

2021-04-21 20:03:51
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天文21年6月21日付山吉丹波入道政応宛黒川 実書状写(同前1482号)には「…色部令同心、揚北中示合、中条前之義押詰、巣城計に成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、従拙者も府へ及註進候つ…」と書かれており、伊達晴宗が揚北衆と中条との間の和睦に動いていたことが分かる。

2021-04-21 20:03:51
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この揚北衆の一員である黒川四郎次郎平実が書いた内容からは、伊達時宗丸入嗣問題が発端となり、伊達衆と中条によって「本庄・鮎川要害」が攻略された(天文8年とされている)あと、それほど間を置かず色部を中心とした揚北衆による中条への反撃が行われたように見えたのだが、そうではなくて、

2021-04-21 20:03:52
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伊達家の天文の乱が起こった直後に揚北衆の中条攻めが始まったとなると、揚北衆は下渡島問題やら何やらで揉めていたなかでも、伊達時宗丸入嗣問題が燻り続けていたというわけか。この辺りの認識を誤っていたようだから、見直さないといけないな。

2021-04-21 20:03:52
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『東日本の動乱と戦国大名の発展』には、「(伊達)稙宗が進めた時宗丸の越後守護上杉氏入嗣問題に、宿老桑折景長・中野宗時が「精兵を越後に取られる」と反対し、(晴宗が)稙宗失脚を謀ったとされる。しかし越後守護上杉氏への入嗣は、伊達氏の家格上昇(守護待遇)と勢力の拡大を意味する」として、

2021-04-22 20:25:01
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伊達晴宗は入嗣問題に反対してクーデターを起こしたわけではないと書かれており、『伊達氏と戦国争乱』には、「稙宗の女婿で伊達氏の傘下にあった有力国衆の懸田俊宗が稙宗と近づき、大きな力を有したことを晴宗が警戒し、稙宗と懸田氏の分断を図ったのが乱の発端とする考えもある。

2021-04-22 20:25:02
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この天文の乱終結後も晴宗が懸田氏を警戒し、ついには滅亡に追い込んだことを考えると、この考えの方が実相に近いようにも思われる」として、クーデターの発端は晴宗が懸田の勢力伸長を嫌ったからではないかと書かれている。これらを読む限り、伊達家の天文の乱は入嗣問題が原因ではなさそう。

2021-04-22 20:25:02
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懸田俊宗は伊達氏の系図に中務大輔として見えるが、伊達晴宗書状案の「懸田三郎」は、俊宗の子とされる義宗と考えて良いのだろうか。一応、義宗は家督を譲られていたが、実権は俊宗が握っていたという感じで。ネット情報によると、〔奥相茶話記〕では父子の実名は逆になっているらしいが。

2021-04-27 17:40:24
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伊達稙宗は、時宗丸の越後国行きが遅れている理由について、奥州大館の磐城氏には、越後国内の「乱劇」が収まらないため、揚北衆の黒川氏には、時宗丸が「若年」であるためと説明しているのだが、どちら本当なのだろう。一応、長尾・上杉側の人間である黒川に対しては遠慮があったのだろうか。

2021-04-28 17:17:14
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年次未詳6月14日付神谷常陸介宛伊達左京大夫稙宗書状(『大日本古文書 伊達家文書』160号)「態令啓候、抑連々可有其聞候歟、上杉名跡之儀、時宗丸可有相続分候、於愚老は、遠慮之旨、数ヶ度雖及辞退候、定実骨肉之間に、可被致猶子方無之候上、頻競望候て、先年平子豊後守為迎、被越置候き、雖然、

2021-04-30 20:49:26
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彼国之乱劇未落去候故遅延、去々年已来両使節差越、国中一統之調法候上、違背之族候も、一両輩及対治、残徒色部一ヶ所迄候条、近日向彼口、可致出馬候、然ば御合力之義申述候、就中田村・相馬両所境辺、如何様之鬱憤之義、雖出来候、御堪忍候様に、重隆へ御意見可為欣悦候、邪正之儀は、

2021-04-30 20:49:26
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帰陣之上可申合候、心緒之段、正覚院任口説、不能詳候、恐々謹言、」 伊達稙宗が磐城重隆の重臣へ宛てたもので、年次比定は天文9・10・11年の三通りある。伊達衆が退治した「一両輩」とは越後国小泉荘の本庄・鮎川であろうから、これが起こったは天文8年秋頃となると、

2021-04-30 20:49:26
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稙宗が同荘の色部を攻めようとしたのが二年も三年も後とは考えにくいことと、越後国の「乱劇」が収まらないために時宗丸の入嗣が遅れ、稙宗は一昨年に越府へ使節を派遣して戦乱の調停に努めたようであり、7年には越後国における天文の乱が終わっていることからして、年次は9年ではないだろうか。

2021-04-30 20:49:27
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天文7年に伊達時宗丸の越後上杉家入嗣が決まったという考えは、越後国の天文の乱が収まった同年に上杉家が「伊達御曹司様」を迎えるに当たり、越後衆から段銭を徴収していること(『上越市史 資料編3』1538号)によるのだが、この神谷常陸介宛伊達稙宗書状の年次が天文9年で間違いなければ、

2021-04-30 21:25:10
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時宗丸の入嗣が遅れた越後国の「乱劇」とは天文2年から同7年にかけて行われた戦乱を指すことになり、時宗丸入嗣の決定は7年よりも前になるはずだから、享禄と天文の乱の間か、天文の乱が一時だけ収まった天文5年に決まった可能性があるのではないか。

2021-04-30 21:25:10
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神谷常陸介や下伊賀守(揚北衆・黒川氏の家臣)へ宛てた伊達稙宗の書状によれば、時宗丸を迎えに行ったのは上杉家譜代の重臣である平子豊後守なのだが、〔伊達正統世次考〕では、大楽(平子)・直江・新発田・柿崎の四人となっている。思うに有名どころの直江・新発田・柿崎は書き加えられたのではないか。

2021-05-01 18:27:07
la_cometa_rossa @nagao_uesugi

本当に四人で迎えに行っていたとしても、古くから、直江は実綱、新発田は長敦、柿崎は景家とされていたりするが、直江と新発田については明らかに世代が異なり、柿崎については、天文の乱で当主の三郎左衛門尉は戦没したらしいが、この頃の当主が誰であったのかはよく分からない。

2021-05-01 18:27:07
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伊達家の天文の乱までの二年間となると、長尾・上杉側では、9年夏には信濃国から敵が攻め込んできたりして、またしても朝廷に綸旨を申請しなければならないような戦乱が起こり、10年末に長尾為景が病没した際には、遺族たちが具足を着用して送らなければならないほどの状況でしたが、

2021-05-02 18:33:10
la_cometa_rossa @nagao_uesugi

11年に入って何とか落ち着いたようで、4月には上杉玄清(定実)が滞っている入嗣問題を急かすかのように隠遁宣言を行い、そこからまた動き出した、というような流れなのですが、伊達側については、10年4月に晴宗がどこかへ出陣していたことと、5月に三春の田村父子と和睦したのち、

2021-05-02 18:33:10
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