2021.06.27 青天を衝け(20)「篤太夫、青天の霹靂」放送後の町田明広先生による解説ツイート

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町田 明広 @machi82175302

本日は「青天を衝け」20回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。本日は、土方歳三?#青天を衝け

2021-06-27 17:44:02
町田 明広 @machi82175302

「青天を衝け」20回目を拝見!本日は慶喜の宗家相続(将軍就任)に反対し、幕臣となって慶喜と距離ができ、鬱積する渋沢の心情が巧みに描かれた。また、幕臣捕縛で土方歳三とのやり取りが、史実をベースに展開され、2人の心の絆や渋沢の前向きになる気持ちの推移が描かれ、秀逸だった😃 #青天を衝け

2021-06-27 20:46:18
町田 明広 @machi82175302

慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃から、第2次長州征伐(幕長戦争)が開戦となった。幕府軍は1年以上に及ぶ大坂滞陣に辟易しており、しかも、病気も蔓延して士気は停滞していた。そこに、薩摩藩を始めとする諸藩は出兵を拒否したため、幕府にとっては痛手となった。#青天を衝け

2021-06-27 20:47:16
町田 明広 @machi82175302

7月20日、島津久光・茂久(忠義)父子は征長反対の建白書を提出した。薩摩藩は、「小松・木戸覚書」(いわゆる薩長同盟)も相まって、一貫して長州再征には反対しており、あからさまに、抗幕姿勢をより鮮明にした。困った幕府は、松平春嶽や勝海舟に薩摩藩との仲介を依頼するなど試みた。#青天を衝け

2021-06-27 20:48:14
町田 明広 @machi82175302

長州藩は、大村益次郎による軍制改革によって、家臣団軍隊の改編が進んでいた。この経緯は、日本史における武士団解体の歴史における重要な画期となっている。幕府は散兵戦術に長け、薩摩藩の名義借りで購入した近代兵器を使いこなした長州軍に大敗を喫した。武器の優劣の差ではない。#青天を衝け

2021-06-27 20:48:48
町田 明広 @machi82175302

7月20日、将軍家茂が大坂城で急逝(脚気衝心)した。家茂の遺言は、ドラマで描かれたとおり、将軍候補として田安徳川家の7代当主田安亀之助(静岡藩初代藩主家達)が指名されていた。しかし、亀之助がまだ4歳であるため、和宮などの反対にあった。#青天を衝け

2021-06-27 20:49:56
町田 明広 @machi82175302

老中板倉勝静は、病床の家茂に対して、継嗣について確認することを何度も思い立ったが、さすがに遠慮したと語っている。慶喜しかいないことは、自他共に認めるところであり、どのタイミングでどのように受けるのか、そこがポイントであった。#青天を衝け

2021-06-27 20:51:15
町田 明広 @machi82175302

7月27日、慶喜は徳川宗家の家督相続を承諾したものの、実は手に入れたかったのではないかと考える将軍職は固辞した。それにしても、当然のことであった徳川宗家=征夷大将軍に待ったをかけ、慶喜は宗家家督と将軍職を切り離して対応しており、その発想の転換には驚かされる。#青天を衝け

2021-06-27 20:52:33
町田 明広 @machi82175302

8月8日、松平春嶽らの反対意見を退け、慶喜は参内して自らの出陣の勅許を奏請して聴許された。孝明天皇によって、戦争の継続が沙汰されたことになるが、天皇は慶喜以上に、あくまでも長州再征の継続にこだわりを示し続けたのだ。#青天を衝け

2021-06-27 20:54:21
町田 明広 @machi82175302

出陣の勅許まで獲得した慶喜であったが、九州方面での敗報が届くと手のひらを反し、8月13日、関白二条斉敬に征長出陣中止の勅命を内請した。このあたり、慶喜の思考回路の鋭敏さではあるものの、変わり身の早さと捉えられ、その行動に周囲はついて行けなかったであろう。#青天を衝け

2021-06-27 20:55:06
町田 明広 @machi82175302

孝明天皇は、慶喜の長州ヘの大打ち込み中止の奏請に、当初難色を示したものの、8月16日にしぶしぶ勅許した。慶喜は、諸大名を召集して、天下公論で国事を決める姿勢を示した。しかし、慶喜を支持し続けた関白二条斉敬や朝彦親王の朝廷内の権威失墜に繋がったことは自明である。#青天を衝け

2021-06-27 20:56:29
町田 明広 @machi82175302

また、慶喜の幕長戦争への対応は、会津藩にとって、由々しき事態であった。一会桑勢力(一橋慶喜、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬)と言われていたが、この段階で大きなきしみが発生したことも見逃せない。このあたり、ドラマでもうまく演出されていた。#青天を衝け

2021-06-27 20:56:50
町田 明広 @machi82175302

慶応2年8月11日、渋沢栄一は幕長戦争への従軍を命ぜられ、勘定組頭に御使役を兼任し、御用人手附を拝命した。万が一に備え、手書および懐剣を夫人に贈って別れを告知した。ドラマでは、それらを受け取った千代の姿が感動的に描かれ、涙を誘われた😭 #青天を衝け

2021-06-27 20:58:11
町田 明広 @machi82175302

慶応2年7・8月ころ、慶喜が将軍継嗣と取りざたされるに至り、渋沢栄一は渋沢成一郎とともに、黒川嘉兵衛に代わって用心筆頭になった原市之進に対し、その不可である理由を切論した。その内容を、『雨夜譚』によって、少し詳しく見ていこう。#青天を衝け

2021-06-27 20:59:04
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、「今日の徳川氏は、これを家屋に譬へていふと、土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた、大きな家の如きものである」と、現在の幕府(徳川宗家)は土台も柱も腐った崩れかけた家のようなもので、救いようがないと分析する。#青天を衝け

2021-06-27 21:00:14
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、「然るに今一橋公は賢君であるの材能が多いのといつて、御継統の将軍となし奉つたとても、恐れながら君公一人ではドウすることも出来ず或は却て滅亡を早くするやうなことがあるかも知れぬ」と、慶喜がいくら有能であっても、1人ではどうすることもできないと訴える。#青天を衝け

2021-06-27 21:00:37
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、「今一橋公が大統を継いで将軍家の御相続をなさるといふは、丸るで死地に陥るので、実に失策の極、危殆千万な事柄である 故に何卒相続の事は切に御止まりにならんことを願ひたい」と、将軍就任は死地に陥る下策であり、絶対に相続してはならないと切言した。#青天を衝け

2021-06-27 21:01:08
町田 明広 @machi82175302

渋沢は、「其代りに自分等の考案は、此の累卵の如き危い幕府たりとても、これをして一日も長く保つ様にするのには、一橋公は御相続を御辞退になり、他の親藩から幼弱の人を撰んで、将軍家の継統として、一橋公には相替らず御輔佐の地に居られて」と、渋沢の意見として、現状維持を訴える。#青天を衝け

2021-06-27 21:01:29
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、「依然として京都守衛総督の御職掌を尽さるゝが、御双方の得策であると思ふ、」と、慶喜に一橋家に留まり、禁裏御守衛総督を全うすることを勧める。あくまでも、将軍職は辞退し、現状維持のまま、幕府を補佐することを全身全霊で進言したのだ。#青天を衝け

2021-06-27 21:01:53
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、「併し此の総督の大任を完全に尽すといふ日には、兵力といひ財用といひ、現今の有様では何の役にも立たぬから、宜く此の機会に投じて、畿内又は其近傍に於て、五十万若くは百万石の封土を御加増になるといふ計画になされたいものである」と、渋沢らしい論を展開する。#青天を衝け

2021-06-27 21:02:11
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一は、つまり、禁裏御守衛総督を完全に全うするためには、兵力と財力が必須であり、今のままではどうにもならないため、この機に乗じて畿内ないしその近郊で50ないし100万石の加増を受けるべきと進言している。渋沢の、リアリストとしての面目躍如のプランであろう。#青天を衝け

2021-06-27 21:02:37
町田 明広 @machi82175302

渋沢栄一の意見を開陳された原市之進は、慶喜に直訴することを渋沢に勧めた。しかし、それも叶わず、渋沢は失望して鬱積状態となっていった。このあたり、ドラマからも渋沢の心情が伝わってきたが、吉沢栄一の演技力も流石であった(^^) #青天を衝け

2021-06-27 21:05:22
町田 明広 @machi82175302

原市之進について、 朝日日本歴史人物事典によると、生年は天保1.1.6(1830.1.30)、没年は慶応3.8.14(1867.9.11)、幕末の幕臣。水戸藩士原雅言の子。藩校弘道館に籍を置き、また会沢正志斎、藤田東湖に学ぶ。嘉永6(1853)年、昌平黌に入学。#青天を衝け

2021-06-27 21:05:44
町田 明広 @machi82175302

原市之進は、安政2(1855)年帰藩、弘道館訓導、次いで史館に勤務の傍ら、菁莪塾を経営し子弟の教育に当たる。同5年8月の戊午の密勅降下を機に尊王攘夷運動に参加。老中安藤信正の襲撃を画策した。文久2(1862)年12月徳川(一橋)慶喜に随従して上洛した。#青天を衝け

2021-06-27 21:06:01
町田 明広 @machi82175302

原市之進は、元治1(1864)年4月選ばれて一橋家御雇、慶喜の謀臣として長州再征、条約勅許の工作に当たる。慶応2(1866)年7月目付に登用され、慶喜の将軍就任に力を注いだが、翌年8月14日、微禄の幕臣に殺害された。年38歳。その背後関係は不詳である。#青天を衝け

2021-06-27 21:06:13