『大龍山臨濟寺の歴史』

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日光81 @nikko81_fsi

『大龍山臨濟寺の歴史』戦国期のパート読了。今川義元や太原雪斎所縁とは知ってはいたものの、成り立ちから学べる貴重な本。太原雪斎崇孚と師匠で臨済寺開山・大休宗休、さらに後奈良天皇との浅からぬ関係から勅願所として創建された格式。また太原斎崇孚の京での親交の広さに驚く。 pic.twitter.com/6s60oxE3fs

2021-08-09 15:46:06
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日光81 @nikko81_fsi

今川義元が転法輪三条と武田の間を取り持ったりできるのも、太原崇孚と京で修行していた賜物なんだろう。そして快川紹喜と同じく妙心寺に奉勅入寺を果たしている。派閥は霊雲派と東海派と違えど、武田晴信の妙心寺派への傾倒と今川との妙心寺派や京との関係に関連付けられるのかな。

2021-08-09 15:58:08
日光81 @nikko81_fsi

興味深いことはたくさんあるが、そのひとつが『今川家諸宗礼式』で、天文19年に諸宗寺院の礼式を義元の諮問に応える形で太原崇孚が出している。信仰の宗門は崇敬随意とするのは信玄の宗教政策も想起させ、快川と信玄との間にも同じような遣り取りがあったか、今川家諸宗礼式の影響があるのか。

2021-08-09 16:03:22
日光81 @nikko81_fsi

太原崇孚に徽号追諡するにあたって、徽号下賜に寺格や法階によって細かく決められているのも興味深い。宝珠護国禅師というそうな。

2021-08-09 16:10:44
日光81 @nikko81_fsi

三世・東谷宗杲の時代に駿河侵攻があり、臨済寺が炎上する。ただ、臨済寺宛の制札があること、324貫ほどの寺領寄進をしている点は見逃せない。永禄12年の寄進判物は「林済寺衣鉢閣下」とありそれなりに丁重な印象は受けた。

2021-08-09 16:18:34
日光81 @nikko81_fsi

東谷宗杲は諏方御料人の眠る高遠・建福寺二世となる。東谷宗杲個人としては太原崇孚とのつながりから、やはり武田の時代は生きにくいのであろう。甲斐の人である弟子鉄山宗鈍につなぐ。

2021-08-09 16:22:32
日光81 @nikko81_fsi

四世・鉄山宗鈍。アナヤマノブタダのルビを思い出す鉄山集を思い出す。恵林寺で出家した鉄山は当時寺中で文雅の嗜みが重んじられたとかで画に造詣が深く、狩野永徳次男・孝信とも親交があるとか。武田逍遙軒や土岐徳秀斎とも親交があったのかな?ソースが不明だが、、、

2021-08-09 16:28:15
日光81 @nikko81_fsi

この時代、信玄は臨済寺の材木を勝手に伐ることを禁じ、また寺領寄進を進め、勝頼の時代になって勅願寺として再興を進めている。信玄在世時に臨済寺再興の勅命があったそう。妙心寺派との近しさも考えると、武田としても再建し体面を重んじるべき寺という認識なのだろうね。

2021-08-09 16:32:22
日光81 @nikko81_fsi

三条家はじめ朝廷との関係が遠退きがちな勝頼期において、妙心寺法統を介した上方との接近ルートは、本願寺ルートと並んで重要だっただろうな。

2021-08-09 16:35:35
日光81 @nikko81_fsi

鉄山宗鈍の人となりを考える上で、信玄・勝頼との個人的な信頼関係だけでなく、穴山武田信君や今福長閑、丹波、真田昌幸とも知己の城昌茂とも関係が深いんですってね。広く信頼を得ていたのだろうな。あ、信君、江尻城で個別に?信玄七回忌をやってんですってね。勝手にやっていいの?とか思った…

2021-08-09 16:40:39
日光81 @nikko81_fsi

そして武田滅亡時に二度目の焼失。この時、四辻公遠が家康にコンタクトし、後奈良帝勅願所として再建に奔走。これをうけて家康が鉄山とコンタクトするときに、武田遺臣を奉者している点が興味深い。家康の配慮もさることながら、それだけ鉄山が武田家中に深く根ざしていたように思えて。

2021-08-09 16:46:36
日光81 @nikko81_fsi

太原崇孚の京での人脈と妙心寺派の教線拡大、これと恵林寺の妙心寺派改宗や快川紹喜招聘に現れる晴信の妙心寺派傾倒との関係を想像させる点、武田の駿河制圧後の武田の皆さんと鉄山との関係の深さは興味を惹かれるところ。

2021-08-09 16:59:55