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0414 平山優先生 「武田信虎の人物像」拝聴した気づき。

まとめました。
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日光81 @nikko81_fsi

山梨文化学園・歴史文化教室「信虎回」第1回「武田信虎の人物像」。悪人、悪政だった・・・という伝わり方をする信虎。ある意味それは正しいかもしれない、から始まった今回の講演会。個人的には大泉寺からみつかったという、信虎葬儀の記録の話が一番興味深かった。

2018-04-14 19:49:48
日光81 @nikko81_fsi

高遠城で信虎、勝頼がと対面した後、3月に信虎死去。直後に勝頼は佐久岩村田の龍雲寺、北高全祝に大導師を依頼するのだけど、その記録がビミョウなのだそうだ。通例、生前どういう人でどういうことを成し、どういう人となりかを(だいたい良いように)読経し読み上げるものなのだけど・・・

2018-04-14 19:53:49
日光81 @nikko81_fsi

信虎の場合は、そこの部分がすっぽり抜け落ちているのだとか。どうも武田の家中において、腫れ物に触るというか、アンタッチャブルな扱いを受けていた節が有る、というのだ。そもそも武田家にあって特に重んじられた恵林寺ほか臨済宗妙心寺派からは参列がなく、大泉寺も龍雲寺もともに曹洞宗。

2018-04-14 19:57:11
日光81 @nikko81_fsi

確かに龍雲寺は信玄遺骨が残されているという話もあったり、逍遙軒が個人的に逆修供養をしていたり、武田家とのかかわりは深いのだけども、いわゆる先代武田家当主として大々的に葬儀をするということではなかったのかもしれない。実現しなかったが七回忌法要でも龍雲寺に勝頼は依頼している。

2018-04-14 19:59:56
日光81 @nikko81_fsi

そこではたと思ったのが、信虎戒名。大泉寺殿「泰雲存公」庵主。武田信昌:傑山勝公、武田信縄:浮山邦公、武田晴信:機山玄公、武田義信:籌山良公、武田勝頼:泰山安公と、「○山」という法号がつくのだけど、信虎は付いていない。

2018-04-14 20:09:13
日光81 @nikko81_fsi

大居士かどうか、というのは信昌、信縄、義信は大禅定門という例もあるのだけど、「庵主」っていうのもまた何か意味がある?ちょっと扱いが違う感じは戒名からもそういや感じるな、と思い至り。甲陽軍鑑は信玄子飼の将をぞんざいに扱い、また勝頼を諏訪の子と低く見たりだとかというエピがあるものの…

2018-04-14 20:13:02
日光81 @nikko81_fsi

こうしたちょっと「取扱注意」的な扱いをされているのは、確かに高遠で対面したときに、少なくとも勝頼と重臣それぞれに対し、良くない印象を与えたのだろうというのは頷ける。当たり障りのない葬儀で済ませたかもしれない、という想像も働く。

2018-04-14 20:15:15
日光81 @nikko81_fsi

とはいえ、高野山引導院の勝頼遺品目録に、最近挙げられることが多くなった若い頃の晴信寿像とともに高野山に信虎寿像が記されているそうで(ただし実在不明、文書に記録あり)勝頼が極端に低く取り扱ったかというとそうでもない気はする。扱いが難しい祖父という感じか。

2018-04-14 20:18:48
日光81 @nikko81_fsi

勝頼が信虎と対面したのが、勝頼にとって安心のできる(過去郡司を務めた)伊那高遠城というのも、甲斐に祖父を迎えてしまっては、信玄薨去後の微妙な時期に掻き乱されたくないという想いがあったであろうことは、想像に難くない。

2018-04-14 20:21:18
日光81 @nikko81_fsi

さてそんな信虎の事跡。おおよそ以前の「信虎追放事件」の講演の復習になるのだけど、興味深いのは、周りを敵に回しまくって戦争していた時期を脱し、諸氏との同盟を模索する時期。花倉の乱への介入から今川義元との同盟、今川×北条(氏綱)との関係悪化からの第一次河東一乱への流れに新しい要素が。

2018-04-14 20:25:58
日光81 @nikko81_fsi

氏綱が信虎との対立継続に危機感をもち、天文8年に和睦を持ちかけているらしい。このとき、北条と対立している今川に打診をした形跡がなく、勝手に和睦したと義元が仮に捉えたとすると、義元サイドとしては信虎に対する疑心が出てくる、それが追放事件で義元の晴信支持につながるのではと。なるほど!

2018-04-14 20:28:34
日光81 @nikko81_fsi

信虎の評価。信玄時代につながる試作の先鞭をつけたような事跡多数。特に守護時代の信昌・信綱とは異なり、一門に軍事力を頼ることなく、享徳・応仁の乱で大量に出た牢人層から即戦力となる猛者を足軽大将に雇い入れるというのは、後に信玄がより大規模に非一門衆を取り立てていくことと連続性がある。

2018-04-14 20:32:53
日光81 @nikko81_fsi

信玄の代でも前期は、追放に功のあった板垣信方の戦死後板垣や甘利らが後退していくという非一門の取立てに対し、一門の排除(あるいは限定)という側面はあって。ほぼほぼ信玄の時代は自分の弟である信繁、信綱と子の勝頼程度に集約しているわけで。

2018-04-14 20:36:52
日光81 @nikko81_fsi

信虎の「悪政」「苛政」とは。直属の足軽大将を充実させつつ、周りの国衆をねじ伏せていきながらその国衆としての地位を剥奪し、武田家の譜代奉行化(官僚化)させていったこと、また統一過程で軍事偏重にならざるを得ない民衆の不満。これが後に「悪政」という評価になったのかもしれない。

2018-04-14 20:40:24
日光81 @nikko81_fsi

実は、信玄初期の信濃にまだそう領国が拡大できていない頃は、信虎期にすらなかった百姓の逃散もあったほどで悪化している面もある。ただ信玄の場合は後に信濃ほかに領国をどんどん拡大していくことで、甲斐が戦地から離れ、乱捕りの成果もあって、苦しい時期の後に豊かな時期を迎えられた。

2018-04-14 20:42:52
日光81 @nikko81_fsi

…と考えると、信虎であっても信玄でもあっても同じ環境ならやはり負荷は過酷にならざるを得ないわけで、信虎評と信玄評がわかれるのはあとの「オイシイ」ところを与えられたかどうか、信虎の場合は天文十年の大飢饉と父子の仲の悪さが絡んで、追放に至ってしまったけど、実は…

2018-04-14 20:45:02
日光81 @nikko81_fsi

あのまま領国を史実の信玄と同じように拡大していれば、評価は一転していた可能性もあったのかな。飢饉と強権的に甲斐を統一していく感情的なわだかまりをうまくつかって、廃嫡の危機を逆に追放するというのは見事な逆転勝利かも。本来信虎が享受すべき評価まで晴信がもっていった感。

2018-04-14 20:47:49
日光81 @nikko81_fsi

もうそこは、家臣団との利害一致具合と、飢饉で反発が高まっているなかでの海野棟綱攻めによる反感という時機をうまく見切って、成果を掠め取った20歳の晴信のすごさですよ。晴信だけで行動には移せなかっただろうけども。

2018-04-14 20:50:57
日光81 @nikko81_fsi

個人的に関心が高いところがもうひとつあって、それは追放後。追放された後あまり駿河にはおらず、京での活動の「方が多かった」ということ。京をうろちょろはしていたの知ってるけど、そっちが主体・・・悠々自適で駿河でも子供つくっちゃってさーと思ってたんだけど、とんだ思い違いだったようだ。

2018-04-14 20:53:52
日光81 @nikko81_fsi

京に上った最初?は天文12(1543)年だから追放されたわずか2年後、このときは高野山寄ったり、奈良行ったり、顕如に会ってたり・・・なんかすっごいコネクションづくりしているように見える。飛んで15年後の永禄8(1558)年以降、山科言継と入魂。以降ほとんど駿河にいないんじゃね?ってくらい。

2018-04-14 20:58:23
日光81 @nikko81_fsi

永禄9(1559)年には将軍義輝に拝謁、以後ほとんど京にいたんだろうな。で、永禄10(1560)には今川義元が敗死してから、今川から織田へ同盟関係が移っていくのは先般の柴先生のお話の通り。そして、どうやら追放後に信虎・信玄が接触を再開し、ある程度の情報共有を図っている節があるらしい。

2018-04-14 21:02:44
日光81 @nikko81_fsi

とすると、京に信虎があって、公家や幕府とコネクションつくっていることは、義昭政権を下支えする信長との関係を信玄が構築する上でも非常に役立ったのかもしれないなーと思わせられますな。

2018-04-14 21:05:32
日光81 @nikko81_fsi

信長との関係が破綻した後、信玄西上作戦に呼応するかのように、元亀四(1573)年、信虎は甲賀にあって義昭の命で軍勢を集めて、信長包囲の一角に加わらんとする。信長からはどーせうまくいかねえよ、と思われているようだけど、信玄本隊・別働隊に加え、甲賀にもうひとつの武田軍が…と思うとアツい。

2018-04-14 21:08:00
日光81 @nikko81_fsi

そして、信虎が甲賀にいたのは、上洛途上かなと思ってたんですけど、ひょっとして元亀~天正初の頃のことなのかもしれない。あの甲賀水口に伝わる信虎の末裔はこのときに子をなしたのかねぇ。いや、でもそのとき76歳(1497年生説なら)だぞ?それはねーべ。やっぱり上洛途上か。

2018-04-14 21:10:35
日光81 @nikko81_fsi

実際は、信玄薨去で信長包囲は瓦解し、畿内におそらく信虎はいられなくなって、武田領までなんとか逃げ延びてきたのだろうなぁ。そんな逃げ延びてきて、それで勝頼と重臣に警戒される信虎・・・あ、信虎は信玄薨去を知っていたのか?公には隠居ってことになってたよね。(現実は周知の事実だとしても)

2018-04-14 21:13:09
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