10/31 横浜市歴史博物館「横浜の大名」展

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日光81 @nikko81_fsi

続いて米倉展。こちらもかなりおもしろい。展示の主眼は幕末だが戦国から江戸始めのとこに張り付いていた。米倉重継像にはビッシリと経歴が記され、天文15年以来伊那、木曽、松本平、小県平定に歴戦、三方原の後、長篠戦役では真田や土屋、安中…とあるので右翼を担当したか。長篠で討死。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2021-10-31 19:33:02
日光81 @nikko81_fsi

子息には恵まれたようだが、晴継は武蔵松山城攻略で負傷、癒えるも薩埵峠で討死、継いだ次男忠継が家康に降ると云々。初代恵林寺に墓所があるという…信玄墓の裏手にいたかな?興味深いのは米倉氏は武川衆でかの柳澤氏とも親しかったらしく、忠継後を継いだ弟の種継の子清継は奥さんが柳澤氏。

2021-10-31 19:40:13
日光81 @nikko81_fsi

この後諸般の事情で一度浪人する米倉氏。で、将軍綱吉の時代に取り立てられたのが昌尹。小姓、目付、側用人、若年寄と出世…あれ?どの流れどこかで…そう、柳澤吉保まんまである。綱吉の目に留まった経緯はわからないものの、その所縁から吉保の取り持ちがあったのかな??武田遺臣ネットワーク…

2021-10-31 19:45:52
日光81 @nikko81_fsi

大名となった初めは下野皆川に陣屋を設けるも後に相模金沢にうつすのだけど、金沢に陣屋を移したときの当主忠仰(ただすけ)は柳沢吉保の六男、さらにその子里矩といい、柳澤吉里(吉保嫡子)からの偏諱だろう。柳澤とズブズブの入魂ぶり。

2021-10-31 19:50:49
日光81 @nikko81_fsi

一時浪人したときの昌縄から、それまでの通字「継」を止め「昌」を代々通字にするのもなんだか意味深長。武田的な何かを意識したのかどうか。

2021-10-31 19:53:03
日光81 @nikko81_fsi

くだんの米倉家蔵「武田信玄および武将像」すげえなこれ。ブームに乗った武田二十四将図ではできない、武田遺臣らしい内容に思えたのだ…信玄を中心にある程度のグループ分けられていて、御一門衆、親類衆、四名臣、その他の重臣層(さらに三グループにわかれる)、先方衆、近習衆て感じ。

2021-10-31 19:59:51
日光81 @nikko81_fsi

端っこに米倉丹後がいるのだけど、まず各グループの人数がすごい。一門だと太郎義信、仁科五郎、武田兵庫頭(信実)、武田左衛門佐(信堯)、武田左馬佐(信豊)、桂山入道(信貞)とか。一門に木曽がいたりも。重臣だと小山田弥三郎、兵衛尉、小山田左兵衛と郡内小山田三代、さらに…

2021-10-31 20:05:39
日光81 @nikko81_fsi

老将の小山田備中に40代の小山田備中。虎満と昌成だろう。武将図で珍しいメンツは他にも小宮山丹後、駒井右京、今福浄閑斎、日向大和、信虎時代の荻原常陸あたりか。荻原の向かいに信玄時代の近習衆三枝勘解由、曽根内匠、そして武藤喜兵衛。濃い…濃すぎる。

2021-10-31 20:11:22
日光81 @nikko81_fsi

図右中段下は親類衆。今井刑部、今井親左衛門、岩手右衛門佐…など。この中に春野市右衛門がいて年が若く、恐らく加津野市右衛門、つまり真田信尹な気がする。ちゃんと親類衆ポジションに居るのがニクい。

2021-10-31 20:15:24
日光81 @nikko81_fsi

最下段は足軽大将および先方衆。海賊衆の土屋備前(貞綱)や岡部次郎右衛門(正綱)、朝比奈駿河といった駿河、江馬常陸、右馬尉の飛騨、遠山右馬允の美濃、城伊庵斎(城景茂)の越後とマニアックどころがたくさん。信濃も真田はもちろん、芦田下総、相木市兵衛あたり。人名辞典みないとわからん人も。

2021-10-31 20:25:50
日光81 @nikko81_fsi

あっ、米倉昌尹でひとつ忘れてた。一万石の大名となった時の領知目録、老中らが言い渡してるんだけど、土屋相模守政直(昌恒の曾孫)ていうのアツくない?武田遺臣出世組ですよ!? twitter.com/nikko81_fsi/st…

2021-10-31 20:29:38
日光81 @nikko81_fsi

…話は変わって、後に藩主の先祖顕彰の機運を受けて三侯大明神が祀られるくだり。今はなく社殿は別の神社になっているが、始祖信継、武田に仕えて活躍した重継、そして大名へと成長した昌尹。養子が続いたことも関係してるそうだが、武田遺臣として自負を感じるとこよね。 pic.twitter.com/IXNwe51c05

2021-10-31 20:37:45
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