茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート第2615回「起き間違えられた情熱」(misplaced passion)について」

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茂木健一郎 @kenichiromogi

連続ツイート2615回をお届けします。文章は即興で書いています。本日は、感想です。

2021-11-07 07:29:40
茂木健一郎 @kenichiromogi

夏目漱石の小説を読んでいると、「絵」がとても大事だったのだということが伝わってくる。『我輩は猫である』では苦沙弥先生が水彩画を描いている。『三四郎』は「森の女」という一枚の絵ができあがるまでの物語である。そして、『草枕』はあからさまに画家の話だ。

2021-11-07 07:31:16
茂木健一郎 @kenichiromogi

漱石自身、絵を熱心に描いているけれども、あまりうまくない。味わいがあるけれども、絵画史にのこる存在ではない。ただ、本人が「下手の横好き」で絵に情熱を注いでいたことはおそらく間違いない。ひょっとしたら、小説家よりも画家になりたかったくらいなのではないか。

2021-11-07 07:32:22
茂木健一郎 @kenichiromogi

小説の世界では千年にひとりというような圧倒的な才能のある漱石が、絵ではそうではなかったのは、才能の偏在という意味で興味深い。ただ、絵に対する理解、情熱があったことが、漱石の小説の才能の開花に寄与した可能性はある。一つの分野に対する志向が別の分野で花開くのである。

2021-11-07 07:33:46
茂木健一郎 @kenichiromogi

哲学者のニーチェは、もっとも情熱を向けていたのは作曲であった節がある。ワグナーに近づき、その妻コジマに作品を見せたりしたけれども、音楽の方は凡庸だった。精神のバランスを崩した晩年に至るまで、ピアノで自作の曲を弾いていたという話もある。

2021-11-07 07:34:54
茂木健一郎 @kenichiromogi

アフォリズムに満ちた哲学的文章の書き手に徹していればいいものを、わざわざ作曲に走ってしまうのは、それだけ音楽に情熱があったのだろう。結果として平凡な作曲家に終わったが、そのような情熱があったことと、ニーチェの哲学には関係があるかもしれない。

2021-11-07 07:35:57
茂木健一郎 @kenichiromogi

さまざまな人の事例を見ていると、「起き間違えられた情熱」(misplaced passion)とでもいうべき現象に時々会う。漱石もニーチェもそのような事例であろう。本来その人の資質が向いていることと、情熱を向けていることがずれている。そのような人間のあり方を見ていると興味深いし愛がわく。

2021-11-07 07:37:07
茂木健一郎 @kenichiromogi

この文章を読んでいる方々の中にも、あるいは私自身の中にも、「起き間違えられた情熱」(misplaced passion)はあるのかもしれない。それが人間であると言うこともできるし、結果として意義深い人生になることもあるし、間違った情熱ゆえにまわりまわって才能が開花することもあるのかもしれない。

2021-11-07 07:38:45
茂木健一郎 @kenichiromogi

以上、連続ツイート2615回、『起き間違えられた情熱」(misplaced passion)について』をテーマに7つのツイートをお届けしました。

2021-11-07 07:39:22