茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの「言葉にとらわれずに飛翔すること」
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「連続ツイート」をお届けします。文章は、その場で組み立てながら即興的に書いています! 今朝は、ある思想的態度について!
2011-08-31 07:51:16こひ(1)ある男が、いろいろ質問した。人間はどこから来たのか、死んだら魂はどうなるのか、天国や地獄はあるのか。世界はどうしてあるのか、それに対して、釈迦は、「私はそういう質問には答えない」と言った。いわゆる、「無記」の思想である。
2011-08-31 07:53:36こひ(2)釈迦は言った。目の前に毒矢に当たって苦しんでいる男がいたら、その苦しみを助けてあげるのが先決だろう。矢はどこから飛んできたのか、誰が放ったのか、毒は何なのかという問いは二の次であると。「無記」は実践倫理であると同時に、深い認知哲学を含んでいる。
2011-08-31 07:55:00こひ(3)大切なことは、やたらと言わない方がいい。言うことによって、生命運動がとらわれてしまう。言葉以前の、ぐにゃぐにゃとかたちにならない軟体動物こそが命である。それは全体として感知し、生きなければならないのであって、言葉で固定することには意味がない。
2011-08-31 07:56:04こひ(4)人間は、いかに簡単に言葉にとらわれてしまうことだろう。学歴、性別、国家、肩書き、概念、イデオロギー。言葉を、共有するつてとして使うのであればいい。そうではなくて、固執する糊としてしまっては、その人の命の輝きは半減する。曇った人の、いかに多いことだろう。
2011-08-31 07:57:16こひ(5)たとえば、日本の政局報道における「小沢」という符丁。本来は、経歴も、思想も、人柄も多様な議員たちが集っているのに、それを「小沢」に対する親反でとらえて思考停止する。釈迦の「無記」の思想は、言葉の持つ危険な固定化作用に対する、すぐれた解毒剤である。
2011-08-31 07:58:45こひ(6)ヴィトゲンシュタインの「言語論的展開」は、釈迦の「無記」によって先取りされている。「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」まさに語り得ないからこそ、生命にとっては大切なこととなる。論理哲学論考は、生命哲学の書でもある。
2011-08-31 08:00:04あっ、変換ミス。トゥギャる方とか、もし可能なら、この訂正も入れておいてください。すまん。 @cQ_Q 転回 RT @kenichiromogi: こひ(6)ヴィトゲンシュタインの「言語論的展開」は、
2011-08-31 08:34:30こひ(7)「日本」という言葉も、人の言葉を釘付けにして生命を曇らせることがある。その言葉を固定化することによって、オープン・ダイナミカル・システムとしての命の本質が失われる。「日本」のやわらかで、ふくよかな本質が、ことさらに言挙げすることで失われてしまうのだ。
2011-08-31 08:01:17こひ(8)言葉にとらわれないということは、つまり、一つの保留の態度でもある。決めつけない。本質がどのようなものであるか、徒にこわばらない。「私は仮説をつくらない」とニュートンは言った。実際には、凡庸な日常は仮説だらけである。それで、一向に反省しない。
2011-08-31 08:02:37こひ(9)言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある。特定の言葉にとらわれている人の精神は、すでに若々しさを失っている。硬直した認識は、「言葉」にすがろうとして、結局は「言葉」の海の中に自分を見失ってしまうのだ。
2011-08-31 08:03:52