- komesandazo
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今日のテーマとして、全能のパラドックスを呟いてみたい。一神教キリスト教、イスラム教、ユダヤ教が説いている神、同様の存在として、真言の大日如来や念仏の阿弥陀仏、そうした超越的な存在というのは、単なる人間の空想の産物でしかないことが、このパラドックスから導き出されてしまうのだ。
2021-11-23 21:04:13次のような仮定をしてみよう。全知全能の存在がこの世に存在したとしよう。全知というのは理論上あり得る。宇宙全体が全知であると仮定が可能だから。問題は全能。 ここで次のような課題を考えてみる。 「全知全能の存在は、もう一人の全知全能の存在、即ち第二の神を生み出すことができるか?」
2021-11-23 21:08:12この答えはイエスでなければならない。なぜなら神は全知全能、すなわち神の辞書に不可能という文字はないからだ。 さて問題はここから。 「第二の全知全能の神を生み出した最初の全知全能の神は、第二の全知全能の神を打ち負かすことができるか?」 これが実はパラドックスとなる。
2021-11-23 21:11:07仮に、最初の全知全能の神は、第二の全知全能の神を打ち負かすことができたとしよう。とすると、全知全能の神は、もう一人の全知全能の神という存在を作り出すことができない、ということになり、最初の神は全能ではなくなってしまう。
2021-11-23 21:13:33又、最初の神は第二の神を打ち負かすことができないと仮定した場合も、やはり全能ではなくなってしまう。全能という存在はロジックの観点から、この世には決して存在しない空想上の存在ということがここから言えるのだ。 すなわち、神は存在しないという証明になる。 しかしである。
2021-11-23 21:16:00神はこうした人間のロジックを超えた存在である、と主張することはまあ一応可能だ。しかしここでも矛盾が生じる。 神はロジックを超えた存在であるならば、なぜ一神教は「神は一人」という命題に固執するのか、というのがそれだ。 キリスト教の説く三位一体。これも集合論というロジックに過ぎないのだ
2021-11-23 21:18:18神が人間のロジックを超えた存在ならば、1という数に拘る必要などない。何体いてもOK。百でも二百でも、八百万でも、そして、ゼロでも良い、ということになる。 ここから導き出される結論。 一神教で説く神、あるいは仏教の大日如来や阿弥陀仏、そんなものは人間の空想の産物であり、存在しない。
2021-11-23 21:21:04それじゃあ貴方は一体誰が作ったんだ、と頻繁に一神教を信じる人々は質問してくるかもしれない。これが彼らの議論の常套手段。じゃあ私たちを含めた宇宙の根本法則である数学は誰が作ったのか?これを考えてみれば良い。数学は人間が想像したというよりむしろ、発見したという側面が強い。
2022-01-04 23:44:50ビッグバン以前に何があったかは今のところ誰もわからない。しかし、仮にビッグバン以前に時間と三次元の空間があったとしよう。その空間において、三平方の定理は活用できるか?答えは当然イエスになる。
2022-01-04 23:46:59さらにそれ以前に三次元空間と時間があったと仮定してみる。またしても三平方の定理は活用できる、ということになる。この単純な数式だけではない。数学という宇宙を記述する定理の全体そのものが、創造主なしで成り立っていることがこの思考実験で簡単に分かってしまう。要は無始無終。
2022-01-04 23:55:17宇宙全体を記述できる数学が創造主なしで成り立つのであれば、宇宙全体そのものも、当然創造主は不必要な存在となってしまう。宇宙を想像する人間を遥かに超越した存在というものは不必要な存在であり、あえていうなら、宇宙全体が創造主ということが言えると思う。
2022-01-04 23:59:13