「原因」と「要因」

自分の人生の主人公になる。
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大角 康 @koukaku0811

「なんで自分の考えにじゃなく、人の考えに従おうとする性格になったのかを考えてる。」 「そういう自分の性格を変えたいってことやんな?」 「そう。だからそうなった原因を考えてる。」 「考えるのはいいことやと思うけど、一番大切なことではないよね。」 「え?なんで?(続く)

2022-02-09 03:16:05
大角 康 @koukaku0811

原因がわからなきゃ同じことの繰り返しになるんじゃない?」 「自分の考えに従いたいんやんな?」 「うん。」 「だとしたら、たった今『自分の考えに従って生きる!』って決断して、自分の考えがどういうものかを真剣に見つめて、それに従って今から一つひとつを決断していけばいいんとちゃう?」

2022-02-09 03:16:06
大角 康 @koukaku0811

「いや、でも、原因がわからなきゃやっぱり元の自分に戻るんじゃないかって思うんやけど……」 「原因を知ることってそんなに大切かな?目的は『知ること』じゃなくて『変わること』やんな?だとしたら、原因を知ることによってじゃなくて、『自分の考えに従う!」って決断して、(続く)

2022-02-09 03:16:07
大角 康 @koukaku0811

その決断に従った生き方をその都度していこうとさえすれば、『自分を変える』っていう目的はその都度果たされるんとちゃうの?」 「いや、でも、原因がわからへんと、変えたつもりがいつのまにか元の自分に戻ってまうかもしれへんやん?それを防ぐには原因を知る必要があると思うねん。」

2022-02-09 03:16:07
大角 康 @koukaku0811

こんな会話を昔した。 あくまで「原因」を求めた彼の主張に共感はしたものの、私の中には釈然としないモヤモヤが残った。 そのモヤモヤの正体がやっとわかった。 それは「原因」という言葉に対するものだった。 「私がこうなった原因」という言葉には、「私をこうさせたものは外部にある」

2022-02-09 03:16:07
大角 康 @koukaku0811

という前提がある。 人は様々なものから日々影響を受けているが、自らの心理傾向を問題とする場合、その傾向を形作った「原因」を外部に求めることはできない。 自分の心理傾向に影響を与えた様々な「要因」を挙げることならできるであろう。 しかし、自分の心理傾向を今の形に強制的に決定付けた

2022-02-09 03:16:08
大角 康 @koukaku0811

「原因」を挙げることはできない。 「自分の」心理傾向を問題にしている以上、その傾向の持ち主である自分自身の願望や意志や考え方も、その傾向を生む要因である。 にもかかわらず、外部からの原因によってのみ今の心理傾向が生じたとみなすことは、自分を単なる受動体とみなすことと同じである。

2022-02-09 03:16:08
大角 康 @koukaku0811

自分を単なる受動体と見る限り、自分の考えには従えない。 自分の考えに従うことは、ある「原因」に動かされることではなく、様々な「要因」にどう対応するかを決断することである。 彼が「原因」を求め続けたことは、彼が未だ自分の人生の主体(決断する者)になっていないことを意味している。

2022-02-09 03:16:09
大角 康 @koukaku0811

自分の心理傾向の「原因」を求め続ける限り、自分の考えには従えない。 たとえ原因らしきものがわかったとしても、「原因」という発想にしがみつくかぎり、彼から「自分の」考えは出ないであろう。 周囲の刺激から動かされることと、周囲の刺激に対して動くことはまったく別物なのである。

2022-02-09 03:16:09
大角 康 @koukaku0811

彼にとって自分はあくまで「世界に巻き込まれる者」でしかない。 もちろん私たちは「世界に巻き込まれる者」なのだが、決してそれだけの者ではない。 私たちは「世界を巻き込む者」でもある。 自分のこの2つの側面を痛切に自覚することで、人は初めて自分の人生の主体となるのであると思う。

2022-02-09 03:16:09
大角 康 @koukaku0811

(少し話は変わって) 不可抗力的な暴力を受けた方は、自らを受動体とみなしやすい。 心に深い傷があるほど、人は自分を受動体と見ざるを得なくなる。 そのことまでをその人の罪とすることは、あまりに残酷であると思う。 暴力は、時に被害者を人生の主体でなくさせるほどの威力を持つ。

2022-02-10 00:58:46