- rekiturk_bot
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このヤッファ条約の締結には、カーミルの名代ファクルッディーンと、皇帝フリードリヒ、それにフリードリヒの腹心であったドイツ騎士団総長、ヘルマン・フォン・ザルツァが署名した。私はこの時に直接プロイセンと顔を合わせた。
2011-09-10 23:21:24驚くべきは、皇帝は、カーミルに敵対する勢力に、食料や軍備を与えず、キリスト教徒が平和条約に反する行動を取る場合、皇帝はカーミルを守る、という条文が条約に含まれていたことだ。教皇を敵に回すことがあれば、フリードリヒは教皇への忠誠よりもカーミルとの友情を重んじると宣誓したのだ。
2011-09-10 23:22:08私は、イェルサレムのカーディーとともに聖地でフリードリヒを案内した。神聖ローマの名を冠した小さな国と、プロイセンも一緒だったと記憶している。
2011-09-10 23:23:52私たちは、夜、キリスト教徒であるフリードリヒに配慮してイスラムの祈りの時間の歌……アザーンを止めさせた。だが翌日、祈りの歌が聞こえなかったことを不思議に思ったフリードリヒがそのことについて尋ねた。私は、陛下の心を煩わせることのないよう止めたのだと答えた。だがフリードリヒはこう言う
2011-09-10 23:25:46彼はイェルサレムの王として戴冠する……が、破門されていた彼に付き従って、戴冠式に出席した聖地騎士団はドイツ騎士団のみだった。「戦」によって再び聖地の土を踏むことがかなわなかったドイツ騎士団の騎士達は、フリードリヒとカーミルという偉大な二人の指導者の「対話」によってそれを叶えた。
2011-09-10 23:28:46ドイツ騎士団総長ヘルマンは、フリードリヒが書いたこのような内容の文章を読み上げた。「私は、教皇が私を破門し、非難に満ちた手紙をよこしたことについて、教皇を許す。私は、神、教会、教皇の名誉になることならいかなることでもなす所存だ。私の真摯な平和への愛を示すために」。そう、平和への愛
2011-09-10 23:29:35この後、フリードリヒは聖地を急いで離れざるを得なくなる。ローマ教皇が、異教徒との対話を優先したフリードリヒを敵とみなし、シチリア島に「十字軍」を差し向けてきたのだ。
2011-09-10 23:31:16一方、我が上司カーミルも、イスラーム世界からの非難に晒されていた。サラディンが守った聖地を手放すこと、それは裏切りにも等しい行為だと、彼らの目には映ったのだろう。
2011-09-10 23:32:55カーミルは、1238年、イェルサレムがまだ平和な時に亡くなった。フリードリヒは、それを聞き大いに嘆いたと、私はファクルッディーンから聞いた。
2011-09-10 23:34:59キリスト教徒とムスリムの二人の君主が実現した聖地の和平・異教徒の平和的共存は、評価されぬどころか反発を受けた。が、10年という短い期間ではあっても、それは異教徒への敵対的感情が渦巻き、宗教的情熱が支配した時代の10年だ。そして、二人の君主が生きている間、その約束は確かに守られた。
2011-09-10 23:39:4219世紀、皇帝フリードリヒ二世の亡骸が、学術調査を受けた。孤独なまま亡くなったと思われていたフリードリヒの袖にはしかし、アラビア語で次のような刺繍がされていたという。
2011-09-10 23:40:58かつて預言者ムハンマドの娘婿であり、第四代正統カリフであったアリーが、私の上司、マーリクに送ってきた手紙がある。 「マーリクよ、覚えておけ。お前の国には二種の人民がいる。お前と宗教を同じくするものはお前の兄弟だが、異にするものもまた、血の通った人間なのだ」
2011-09-10 23:46:00対立と不寛容の時代に、カーミルとフリードリヒはこの平和を実現した。我々は、彼らから学ばねばならない。覚えておいてほしい、ムスリムは、よき隣人たりえるのだと。この時に至り、今、我々は、暴力を望まない。我々は、テロなど決して望みはしないのだと。
2011-09-10 23:47:43【中の人から】長々とTL占領失礼しました。9.11は一日黙祷に捧げるため歴土botおよび歴埃botのツイートを停止します(歴蒙は通常運転)。世界が、寛容と建設に向かうことを願って。
2011-09-10 23:51:38ちなみに歴埃さんでは触れなかったがヨハネ・パウロ2世は十字軍に関して公式に謝罪した(2000年)初のローマ法王です。彼の勇気にも敬意を表して。
2011-09-11 00:11:15