5/4 京の武田家所縁寺院めぐりその3(聖護院門跡、住心院)

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日光81 @nikko81_fsi

昨日は聖護院門跡。聖護院というと八ツ橋くらいしかイメージなかったが、信玄公との所縁を知って俄然興味が湧く。天文14(1545)年に今川北条の調停に出向く際に晴信の対面した道増、弘治3(1557)年には信濃守護識に補任する義輝の御内書を携えて甲斐下向したのが、後継者道澄。 pic.twitter.com/hqqiJw1LZH

2022-05-05 09:55:24
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日光81 @nikko81_fsi

そもそも聖護院とは白河院の熊野御幸の先達したことに始まり、聖体護持から聖護院が成立。室町は、園城寺常住院門主の良瑜の意向で、その法統から聖護院門跡に道意が入る。良瑜と足利義満の深い関わりから、代々足利将軍家との関係性も深め、また室町初期の甲斐守護武田氏も熊野参詣を果たしている。

2022-05-05 10:09:42
日光81 @nikko81_fsi

戦国期には応仁の乱で焼亡、一時岩倉長谷に移るもそちらも焼失。永禄の頃には御所八幡の南(丸木材木町~柳八幡町あたり)に聖護院が置かれたという。そんななかで聖護院の有力末寺の勝泉院が聖護院と各戦国大名の取次ぐ位置にあり、後に住心院と名を変えるが、多数の文書を所蔵。

2022-05-05 10:19:08
日光81 @nikko81_fsi

武田に関わる文書だけでも、信玄6点、義信2点、勝頼3点の他、小山田(弥三郎)信有、小山田虎満、穴山信友、跡部勝資などあり、かなり深い関係を想像させます。

2022-05-05 10:27:31
日光81 @nikko81_fsi

くわしく?だらだら?と文書を眺めたときの記録はこちら。togetter.com/li/1844435

2022-05-05 10:31:24
日光81 @nikko81_fsi

諸事修理中のため、江戸時代に再建された堂宇は見学できずでしたが、今年の末から来年にかけてみられるかもしれない。御朱印とともに「山岳修験」第61号も入手。「戦国期関東における熊野先達の存在形態~聖護院支配の武蔵における展開と年行事間の相論を中心として」にひかれた。 twitter.com/nikko81_fsi/st… pic.twitter.com/YVYkCZCoA2

2022-05-05 10:34:51
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日光81 @nikko81_fsi

「山岳修験」は、第65号で「豪圓の活躍―曼殊院文書の紹介―」のなかで、天海が甲府にきたときの動向の一環を知った。全巻あったわけではないけど、図書館で全巻通して、興味を惹く論考の有無は確認したほうがいいかな。togetter.com/li/1757133

2022-05-05 10:37:46
日光81 @nikko81_fsi

仮安置されてる仏様のなかに、岩倉に移転していたときに、当地にあった解脱寺本尊と考えられる不動明王もあった。聖護院となった旧解脱寺も焼き討ちされた際に、持ち出され今に伝わるという。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2022-05-05 10:40:43
日光81 @nikko81_fsi

さて聖護院の有力末寺にして、武田とのパイプ役を担った住心院。昭和の末まで六角東洞院にある頂法寺(六角堂)の隣にあったらしいが、移転して岩倉に。やや離れているが聖護院が一時あった岩倉ということで所縁の地なのだろう。揮毫はやはり聖護院門跡。ですよね。解体して移築したのだろう。 twitter.com/nikko81_fsi/st… pic.twitter.com/K09tViRr6j

2022-05-05 10:48:38
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日光81 @nikko81_fsi

本尊は毘沙門天、脇に不動明王も。ムカデの意匠がある提灯がきになった。変更別に小さな妙見宮もあり、弁天摩利支天なども祀る。扁額みても東洞院に長くあり、それをもってきたんだろうなぁ、という感じ。 pic.twitter.com/STefPZu1yl

2022-05-05 10:51:16
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日光81 @nikko81_fsi

番外編。聖護院門跡にほど近い西尾八ツ橋の里。山椒の効いたみそうどんもうまかったけど、すっごい素敵な環境でした。 pic.twitter.com/QPuBmT6kXH

2022-05-05 00:57:15
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