5/7 京の武田家所縁寺院めぐりその5(白雲寺威徳院西坊跡など)

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日光81 @nikko81_fsi

進行方向を向いて左手手前から宝蔵院、威徳院西坊、大善院上坊。右手手前から教学院尾崎坊、福壽院下坊、勝地院長床坊。位置から言って1枚目宝蔵院、2枚目教学院、3枚目福壽院、4枚目勝地院。 pic.twitter.com/7SCkiJr2G3

2022-05-09 21:42:17
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日光81 @nikko81_fsi

で、目当ての威徳院西坊…これ、現愛宕神社の寺務所じゃないか?建物が残っている?わからないけど…威徳院は明智光秀が『時は今天が下しる…』と呼んだ連歌の地でもある。あるいは大善院かもしれないが、描かれている建物の向きから威徳院としておきたい。 pic.twitter.com/kVeiZPKWhw

2022-05-09 21:47:15
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日光81 @nikko81_fsi

威徳院西坊は大永4(1524)年に成立といい、例の連歌だけでなく、明智光秀との入魂ぶりが確認できるという。論文「戦国期における愛宕山五坊・山伏の諸国勧進」では、各坊は国を単位に檀那場を設定しつつも、大名家興亡でテリトリーが複雑化する中で、各国へ勧進に出向く山伏の姿が明らかにされる。

2022-05-09 21:55:33
日光81 @nikko81_fsi

この論文では甲斐は出てこないが、こうした活発な勧進活動の一環として信玄とのつながりができたのだろうということ、また織田家中の対武田の取次役である明智光秀と所縁が深いことも、武田が威徳院西坊と関係を持つに至ることと関係があるのか…あるいは…

2022-05-09 21:58:56
日光81 @nikko81_fsi

「武田信玄の生涯」展にあった、弘治3年と見なされる愛宕山西坊宛武田信玄文書では、冒頭に「任恒例御札到来」とあり、天文年間からの継続的な関係を想像させ、関係を持つ経緯や光秀との関係もいろいろ想像できて、興味深い。

2022-05-09 22:01:37
日光81 @nikko81_fsi

て、思いを巡らせながらも、現地で何か痕跡を見いだしたい…という欲に応えてくれたのが常夜灯。各坊のが…あっ!威徳院があった!威徳院をみつけるまで常夜灯とにらめっこする怪しい人に成り果てておりました… pic.twitter.com/Kzc2vPDQga

2022-05-09 22:07:14
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日光81 @nikko81_fsi

まぁ、お参りしてからも威徳院みつけてキャッキャヾ(*´∀`*)ノしてましたよね…お社の辺りは古図を見る限り、かなり変わっている様子。尚、明治維新後は本尊勝軍地蔵は西山大原野の金蔵寺に移され現存しているそうですよ。 pic.twitter.com/YocIofCcBS

2022-05-09 22:12:27
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日光81 @nikko81_fsi

下ってからバスを待つ時間に愛宕(おたぎ)念仏寺。直接愛宕山とは関係なさそうで元来の場所(愛宕郡)に由来するようです。こちらはこちらで称徳天皇の時代から歴史があり本堂は鎌倉時代と由緒あります。 pic.twitter.com/YyhU6m5B4B

2022-05-09 22:16:59
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日光81 @nikko81_fsi

かわいくてたのしい地蔵さまとしばしふれ合いタイムでした。 pic.twitter.com/gjDD8zCPH8

2022-05-09 22:17:51
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