正しくTogetter / min.tにログインできない不具合が発生中です。X側の修正をお待ちください(詳細はこちら)

「鎌倉殿の13人」第24回(お勉強中心)

「変わらぬ人」
9
まとめ管理人 @1059kanri

『吾妻鏡』建久4年8月2日条 謀反を疑われた源範頼は兄頼朝に忠誠を誓う起請文を提出。しかしこれを見た頼朝は、範頼が「源」姓を名乗っている事に対し、「もし(頼朝の)一族のつもりで居るのなら頗る過分の考えである」と不快感を表明。このことに範頼は周到狼狽したとあります。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/arAGUE3lda

2022-06-19 20:08:45
拡大
まとめ管理人 @1059kanri

ドラマの中では省略されましたが、『吾妻鏡』建久4年8月10日条によるお、範頼の家人・当麻太郎が、範頼の起請文への反応がないことに不安になり、頼朝の寝所の下に忍び込むという事件を起こし、この事で頼朝は範頼の叛逆を確信したとされます。 #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/MkJQilzPcM

2022-06-19 20:13:11
拡大
まとめ管理人 @1059kanri

『吾妻鏡』建久4年8月17日条~。範頼は伊豆へと配流されますが、翌18日には範頼の家人たちが不審な動きを見せたとして誅殺、さらに20日には曾我祐成の同腹の弟とされる原小次郎という人物が範頼に縁座して殺されており、曾我事件への範頼の関わりを強く臭わせる描写となっています #鎌倉殿の13人 pic.twitter.com/aWGj4WoXeP

2022-06-19 20:16:38
拡大
まとめ管理人 @1059kanri

範頼は建久4年8月17日に伊豆へと配流されますが、実は『吾妻鏡』で範頼の消息が解るのはここまでで、彼が誅殺されたというのは吾妻鏡より後世に編纂された『保暦間記』などに初めて出てくるものであり、今回の脚本はそれを取り入れたものですね #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:47:27
令和の土星人。'24@ワクチン4度接種&インフル接種完了 @4568Ts

@1059kanri 範頼の没年月日がハッキリしてない事をうまく利用した作劇にはうならされましたね。

2022-06-19 20:46:17
まとめ管理人 @1059kanri

@4568Ts よく勉強した上で脚本を練られているなあと

2022-06-19 20:49:19
まつしゆ @mash_jp

@1059kanri #鎌倉殿の13人 途中から、口に出してくれるだけ優しい、と感じた。(^^;; あと、最後のシーンの目は、涙を浮かべているイメージなのかな。>丹後局

2022-06-19 20:34:32
まとめ管理人 @1059kanri

@mash_jp ですね、あれは実はかなりの優しさですね。

2022-06-19 20:35:25
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

曾我兄弟の事件より2ヶ月後、建久4年8月、頼朝の不興を買った範頼は弁明のため起請文を提出する。だが大江広元に「起請文で『源(範頼)』を称するのは分を過ぎている」と難癖をつけられ狼狽したという。広元は鎌倉の安定のため、危うい(または利用されそうな)人物は排除していったのね。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:06:43
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

「源」と名乗ってよいのは鎌倉殿とそのご子息のみ。 これ、『吾妻鏡』にも書かれているのよね。大江広元がこの一文で責め立てているのも記されている。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:10:31
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

安達盛長が蒲殿を心配するの、自分の娘の婿さんだものね。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:13:51
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

一条高能。母は源義朝の娘・坊門姫で、大姫とはいとこである。大姫は後鳥羽天皇への入内が沙汰止みとなったあと、高能との婚儀が持ち上がった。ところが大姫は「淵に身を投げる」とこれを拒絶。これもまた沙汰止みとなってしまった(翌月、北条政子は源義高の供養を行っている)。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:21:16
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

建久5年閏8月北条政子により彼岸の供養が7日間執り行われ、結願の日の8日に追加で清水冠者源義高の供養が行われている(その時の導師は全成ではなかった)。やはり大姫が一条高能を拒絶したのこともあり、鎌倉のためとはいえ義高を殺害したのは寝覚めのよいものではなかったのだろう。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:21:30
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

比企の紙。比企郡小川町では江戸時代細川紙という紙が作られていた。これは紀州高野山の細川村から伝わったのでこの名があるが、奈良平安の頃から武蔵国から紙が納められていた記録があり、その技術があったので細川紙を作ることができたとされる。現在も小川紙は有名。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:22:57
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

巴御前の眉が整えられている。木曽義仲とともにいたときの荒々しさは影を潜め、和田義盛のもとに暮らす巴御前は物腰も柔らかになった。「人は変わることができる」それを表すものが眉なのね。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:27:31
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

頼朝は毘盧遮那仏(東大寺の大仏)の出来に感動し、宋の工人・陳和卿を招いたが「平家を退治し、多くの人を殺した罪は業は深く、会たくない」と辞退されてしまう。そこで自ら奥州征伐に着用した鎧兜と馬、金銀を贈ったが、これも一部は東大寺に寄進し、残りは突っ返されてしまった。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:27:48
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

義時が新居を構えたのは甲斐源氏の安田義定邸の跡地。義定は頼朝に重用されたていたが、建久4(1193)年に息子の義資が鎌倉永福寺の薬師堂供養の際、参列者していた女性に艶書を送ったと梶原景時に讒言されて梟首、義定も所領を没収された。さらに翌年には謀叛を疑われ追討されていた。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:28:03
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

修禅寺に幽閉された範頼の殺害。『吾妻鏡』(1300年頃)に記載はなく、これより後年に編纂された『保暦間記』(1339-1356年までに成立)などには殺害の記事が載る。また殺害されず生きて横見郡吉見(埼玉県比企郡吉見町)に移り住んだ、あるいは越前へ落ち延びたという伝説もある。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:43:26
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

源範頼の殺害後、その息子である範円と源昭の扱いも取沙汰された。その時、比企尼が頼朝のもとを訪れ、助命嘆願をしたとされる。この2人は比企尼の娘・丹後内侍(安達盛長の妻)の娘が範頼の許に嫁ぎもうけた子、つまり尼のひ孫にあたる。範円の子孫は吉見氏を称し御家人として存続した。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:43:47
酒上小琴【サケノウエノコゴト】 @raizou5th

建久6年3月12日、東大寺の供養の際、頼朝は南大門から境内に入ると大衆の中に怪しげなものがいた。捕らえさせると平家の残党で薩摩中務(家資あるいは宗資)と名乗った(『平家物語』『保暦間記』)。能『大仏供養』では刺客は悪七兵衛景清とされ、事が露見して痣丸を振るって逃亡する。 #鎌倉殿の13人

2022-06-19 20:43:55
Vatanabeus @nabe1975

埼玉県北本市石戸宿、東光寺の境内に生える石戸蒲ザクラ。日本五大桜の一本で、国の天然記念物。東光寺は源範頼開基の寺であり、伝説では失脚後逃亡した範頼が東光寺まで辿り着き、手にした杖を地面に突き立てたところその杖がカバザクラに成長したという。 pic.twitter.com/Gfn3elCG7U

2022-06-19 18:45:47
拡大
Vatanabeus @nabe1975

頼朝は多大な犠牲を払いつつ大姫の入内運動を進めたが、大姫の夭折によって頓挫する。大姫の死後、次女三幡(乙姫)の入内を進め女御とするが、こちらも自身と三幡の相次ぐ病死で頓挫した。政治家としては冷徹な人物であった頼朝の最大の失策とされ、また朝廷の反幕府派の台頭を招いたともされる。 pic.twitter.com/Q4S223Qmme

2022-06-19 19:03:04
拡大
Vatanabeus @nabe1975

頼朝が娘の入内を進めた背景には純粋に父親としての思いのほか、朝廷の権威を背景に御家人への統制を強めたい頼朝にとって天皇の外戚となることは必要不可欠であったとの見方もある。一方で平家と同様に外戚の地位を執拗に狙ったのは源氏嫡流という中央貴族の末裔意識を捨てきれなかったともされる。 pic.twitter.com/vhUvsdJpFs

2022-06-19 19:07:29
拡大
Vatanabeus @nabe1975

曽我兄弟の仇討ちでは、一時頼朝が討たれたという流言が飛び交った。鎌倉にもその誤報が入り、驚き嘆く政子に対し範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と慰めたと「保暦間記」は伝える。この言葉が頼朝の耳に入り謀反の疑いを招いたと伝えられるが、政子の虚言もしくは陰謀説も存在する。 pic.twitter.com/nKuiHYhCrr

2022-06-12 10:38:22
拡大
Vatanabeus @nabe1975

幕府成立後の範頼は頼朝の実弟としての権勢に加え、平家討伐の実績や三河守補任、所領の拡大によって直接主従関係を結んだ武士も多く、その中には朝廷の武官職を務める者もいた。幕府内でも屈指の実力者であり、当人の意志がどうであれ頼朝の疑念を招いたのはある意味当然でもあった。 pic.twitter.com/bjNtxrM6cS

2022-06-12 10:44:07
拡大