アルヴァックス『集合的記憶』を読んで

自分用のまとめです。
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孫二郎 @344syuri

M.アルヴァックス『集合的記憶』を読書中。記憶は自分の頭の中にのみ蓄えられているものとは限らず、モノやコト、何より他人の記憶と突き合わせることでその折々に再構成される。それは歴史的真実とはイコールではない。この認識を忘れると本書を掴み損ねる予感がする。

2022-08-22 19:49:01
孫二郎 @344syuri

自分の他に目撃者がいない事件については誰にも頼らない自分だけの想い出と感じがちだが、実際には断片的な記憶をつなぎ合わせて再構成している。ある集団に所属しており、他の人の記憶を頼れる想い出の方がよっぽど楽まである。

2022-08-23 20:40:05
孫二郎 @344syuri

アルヴァックスはこのような記憶のあり方を「自伝的記憶」と「歴史的記憶」に弁別して考える。自伝的記憶は言わずもがなとして、歴史的記憶は一個人の想い出にいかなる影響を与えうるだろうか。それは例えば「自伝的記憶」に記されていない幼い日の出来事を再構成することである。

2022-08-24 23:56:48
孫二郎 @344syuri

大人となった自分は子供の頃、特に乳幼児の頃の記憶をほとんど持たない。だが、1歳の誕生日を家族総出で祝ってくれたことは、家族に事あるごとに何度も聞かされるのですっかり「自伝的記憶」の中に取り込まれている。そう、両者の境は曖昧で程度の問題でしかないのだ。

2022-08-25 00:03:21
孫二郎 @344syuri

子どもは日々同時代人として歴史の中を生きているが、そのことを認識していることはほとんどない。子供にとっては自分を中心としたごく狭い範囲が世界の全てである。しかし何らかの理由で歴史的事件に触れたとき、一時的に広がった記憶は「もっと後になってようやく完全に意味が分かったのである」。

2022-08-25 19:50:14
孫二郎 @344syuri

9.11同時多発テロの夜を未だに覚えている。何が、何故起こったかは分からないまま、ただ映画のようなスペクタクルと今までの世界が変わってしまうような覚束なさを感じていた。アメリカとパキスタン、アフガニスタンの関係がようやくわかるようになったのは最近のことだ。

2022-08-25 19:55:59
孫二郎 @344syuri

あの夜興奮を分かち合った友人とは今はもう疎遠だが、おそらく顔を突き合わせて語り合えば思い出すことはより多かろう。集合的記憶とは互いが互いの記憶のピースを持ち寄ることで成り立っている。

2022-08-31 19:15:11
孫二郎 @344syuri

ところで、9.11テロは歴史的記憶でもある。歴史的記憶とは外から観察された想い出であって、不変であり、それが刻まれたメディアを読み解くことで半永久的に繋がっていく。 集合的記憶は内面から見た想い出であり、体験を共有した人物が一人また一人と減り、最後の一人が旅立った時を以て終わる。

2022-08-31 19:15:12
孫二郎 @344syuri

しかし残された構成員の誰一人、一つの集団が終わったことには気づいていない。その集団はイアソンの船であり、船材がそっくり入れ替わってしまっても依然アルゴー船のままなのである。その時々を生きる人間にとって、歴史が常に変転していることなど生活にはかかわりのないことなのだ。

2022-08-31 19:15:12
孫二郎 @344syuri

故に決定的な違いとは、歴史的記憶は変化を所与のものとして受け入れるのに対し、集合的記憶は「変わりえないと自己が認識している」という点にある。

2022-08-31 19:15:13
孫二郎 @344syuri

集合的記憶と時間との関係。客観的時間は常に一定の速度で流れているが、集合的記憶はそれを認識できない。最も小さな集合と言える家族ですら、成員がみな眠りについた後では時間の流れを感知できない。ただ寝た時間と起きた時間から過ぎた時間を逆算できるのみである。

2022-09-06 19:53:22
孫二郎 @344syuri

集合的記憶は各々の時間の流れを持ち、他の集合的記憶から独立している。集合的記憶同士は時に接触するが、融合するにせよ、再分離するにせよ、接触による変質から免れられない。現代日本ではグレゴリオ暦が用いられているが、旧暦も農事暦として生き残った。一つの集合の中で旧暦と新暦が共存する。

2022-09-08 20:24:04
孫二郎 @344syuri

集合は今まで見てきたように、個人からなり、まるで一つの大きな生命体のようにも振舞うが、より大きな集合体になるにつれ人間性を失い、非人格的な(より安定な)存在になろうとする。この巨大な集合の中では、個人的記憶は背景に退き、集合的記憶のみが成員をつなぐよすがとなるなるのではないか。

2022-09-09 01:33:56
孫二郎 @344syuri

最も小さい集合である核家族にとって、生まれてくる子供は最も身近なヨソモノである。夫婦が共有する集合的記憶を子供は共有していない。子供が生まれることによって家庭生活は変質し、年齢の異なる成員が加入することで外部との接触の仕方も自ずから変わってくる。

2022-09-09 21:26:32
孫二郎 @344syuri

「集合的記憶と時間」と題する一連の記述の中で、最後の4ページはひと際難解だが、一つの集団が提供する視座、視角と考えるとややわかる気がする。集団は時の流れにより変化を蒙りながらも、記憶に対する独自の視角を提供する。個人はその視角を通してしか記憶にアクセスできない。

2022-09-12 19:44:22
孫二郎 @344syuri

人は記憶を見返すとき、一瞬自分の時間の流れを止めている。この異常さが成立するためには、隙間なく流れる客観的時間そのものを一旦棚上げし、ないものとして取り扱わなくてはならない。視角からわずかに覗かれる主観的時間はそれでも十分に広大で、実りあるものなのだ。

2022-09-12 20:05:17
孫二郎 @344syuri

集合的記憶と空間について。空間はその中にあるものによって集合的記憶を喚起する。宗教団体に所属する人にとって礼拝の場所は特別なものとして認識される。また急発展した都市の古くからの住民にとっては、開発されていない裏通りの光景は懐かしさを刺激してやまない。

2022-09-14 02:09:06
孫二郎 @344syuri

所有権もまた、集合的記憶のもたらすものである。物を自分のものと主張するには、周りの人々に承認され、または承認された過去があり、必要ならば登記簿に記録されねばならない。

2022-09-14 13:24:41
孫二郎 @344syuri

集合的記憶と経済について。自由市場があるとき、物の値段は刻一刻と変わっていく。しかし小売店の店頭でリアルタイムに値段が変動することはまずない。卸には卸の、小売りには小売りの、消費者には消費者の「大体これぐらいの値段」という集合的記憶があり、大抵の値動きはそこに吸収されてしまう。

2022-09-15 21:21:07
孫二郎 @344syuri

そして、消費者は「ここに来れば何をどれくらいで買える」という安定した見通しが立つ。集合的記憶がそこをそういう空間として認識するのである。 実際には値段はそれなりに変化しているのだが、品物が生産者から卸へ、卸から小売へ、小売から消費者へと動く過程でかなり緩やかなものとなっている。

2022-09-15 21:30:42
孫二郎 @344syuri

集合的記憶と宗教について。集合的記憶がもっとも喚起される場所が教会であることに異論はない。礼拝の場にいる時に信者たちは共通の精神状態になり、家に帰って日常に戻ってもなお教会との繋がりを感じ続ける。その感情は教会が移転したり取り壊されたりしても変わらない。

2022-09-17 16:26:35
孫二郎 @344syuri

M.アルヴァックス『集合的記憶』読了。アルヴァックスは「集合的記憶」という概念をかなり幅広く使っており、あるグループの常識や共通認識、あるいは故郷、帰属意識といった意味でも用いている。教会の構造とそこに込められた意志からはハビトゥス的なものも感じる。

2022-09-17 17:37:03
孫二郎 @344syuri

家族や友人の記憶と自分の記憶の間にはベン図を描いたときに重なり合った部分のようなエリアがある。集合的記憶とはそんな部分だ。本書を読み始めた動機である「移民はいかにして現地に溶け込むか」という命題に対してはこう答えよう。 「移民が住民と同じ記憶を共有したときである」と。

2022-09-17 17:37:03

ついでに

孫二郎 @344syuri

今回『集合的記憶』を読んで思ったことは、トッドの言う「土地の記憶」とはコミュニティが新入りに過去の記憶を教える作業に他ならないということ。 子供は乳児時代の記憶をおぼろげにしか持っていないので、1歳の誕生日のことや壊してしまったおもちゃのことは教わらなければ思い出しえない。

2022-09-17 21:59:45